静岡県の焼津市歴史民俗資料館で、かような像を見かけたのですなあ。日本武尊であるということなんですが、「日本神話」に疎い者としてはその関わりが判然とせず…。さりながら解説に目を通してみますと、そもそも「焼津」という地名の由来にもつながる話があるのだそうで。
『日本書記』によると、尊は東国遠征の途中、この地にさしかかった際、野原に誘い出されて周囲から火をつけられました。尊は持っていた火打ち石で向火を起こして、難を逃れたそうです。そこから、この地を「焼き津」=「焼津」というようになったと記されています。
先に、やはり資料館の解説で彼の地には縄文遺跡が少ない一方、弥生以降の遺物はたくさん出ている…てなことに触れましたけれど、どうやら日本武尊は弥生以降の稲作信仰の元締めとなる神宮を伊勢の地に祀る際、土地選びに奔走した倭姫命とは叔母甥の間柄にあたるようですので、神話の中にも歴史の記憶が込められているような気がするところでもありますですね。
とまれ言い伝えであるにせよ、日本武尊との関わり深いとされる土地柄だけにこちら、焼津神社の主祭神はやはり日本武尊であるようです。社伝による創建は「反正天皇4年(西暦409年)と伝えられており、今から1,600年以上も前になります」とのこと。本殿は慶長八年(1603年)に徳川家康が建てたということで。
で、その境内の片隅にはやはりと言いますか、日本武尊の像が立っておるのですなあ。ただ、こう言ってはなんですがとても勇猛果敢な印象とは異なる、おっとりしたおっさんふうでもあろうかと。弥生系というよりも縄文系かと思えてしまうところです。
むしろパッと見では、こっちの方が?!と思いかけた像がもう一つあるのですが、八咫烏に導かれる図像からすれば神武天皇像ということになりましょうなあ。ちなみに神武天皇は祭神に連なっておりませんで、別のところにあった像が神社の境内に移されてきただけといえばそれだけのようで。
ところで、焼津神社の境内を離れて住宅街へ続く路地へと分け入りますと、突如として何やらの旧跡然とした場所に到達するのですな。曰く、「日本武尊御沓脱之旧跡」であると。
なんでも日本武尊は船で海上から焼津にアプローチしたようでして、上陸した日本武尊がこの地で休息をとった、まあ、沓でも脱いでのんびりした場所であるということでありますよ。
休憩しているというわりには表情が至って険しいですけれど、まあ、物見遊山に来ているわけでありませんし、この後火攻めに遭うような事態を予測して身構えておるのか、はてさて。
ちなみに焼津市内にはこの他にも日本武尊ゆかりの地がいくつかあるようですし、そも焼津神社の夏の祭礼「荒祭」は日本武尊の勇壮さを表してもいるのでしょう。そういえば、夏場に何度も焼津を訪れた小泉八雲は日々の散歩コースに焼津神社に含めて、その「荒祭」の際の神輿渡御を大変楽しみしていたのだとか。神話との関わりが八雲の興味を掻き立てたのかもしれませんですね。