2019年のGWのことですので、未だコロナ禍の到来などゆめゆめ思い至っていない頃でしたなあ。四国の東半分、徳島の鳴門から海岸線を南下して、高知の室戸岬に至り、内陸に転じて剣山祖谷渓に立ち寄ったりという大きなドライブ旅行に便乗したことがありました。

 

時を経てようやっと、今度は高知から足摺岬を経て、宇和島などを通り抜け、松山に向かうという四国の西側を巡るドライブ旅というのが持ち上がり、便乗することになっておったのですなあ。で、本当ならば今頃は高知に向かうべく羽田空港におるはずが、自宅でPCのキーボードを叩いていたりするという…。

 

要するに、昨年末以来の体調不全を今でも引きずっておりまして、「365歩のマーチ」ではありませんが、どうにも「3歩すすんで2歩さがる」ような状態が続いておるものですから。発症から数えるとゆうに2週間は経とうかというのにまだ…とは、全くもっていやはやです。

 

と、こぼすのはこのくらいにしておきまして、体調は優れないとはいえ、寝込んでいるわけではありませんので、本を読んだりTV(映画)を見たりとだらだらしておる毎日でして、このほどは『文にあたる』という一冊を読み終えたのでありますよ。

 

 

「校正」という仕事を生業にしている方のエッセイ集でして、プロの「校正」とはそういうことなのであったか…と思ったものなのですね。かつての職場で広報を担当しておりますときに、各種の冊子類やらイベントのフライヤーやら、たくさんの刷り物をこしらえるにあたって「校正」は欠かせない仕事であって、ずいぶんとたくさんの誤字脱字、表現のゆらぎやら文法上の疑義などをそれこそ拾いまくったことがありますけれど、個人的には「もしかして向いている仕事?」なんつうふうにも考えたことがありました。が、どうやら「向いていると思うような人ほど向いていない仕事」でもあるようで。

 

実際、プロの「校正」の仕事というのは「間違いを正す」ものでは無いということなのですな。作者が書いた原稿に目を通して、書かれることを鵜呑みにせず、疑問を持つことがその第一歩であると。考えてみれば、プロの校正者と言えども博覧強記の人ではないわけですから、「ここは明らかな誤りで、こうなのです!」と赤字を入れられるはずもなく。要するに「おや?」と気付くことこそ大切というわけですね。で、疑問を持った点を調べてみて、裏付けらしきものが得られたときには「この部分はこんな可能性もありますよ」とかいう指摘をすると。これを採る、採らないは著者や編集者に委ねられるのであると。

 

難しいのは「小説」の校正であるというのは頷けることですな。なにしろ、夏目漱石などもずいぶんと勝手な造語を生み出したりしてますように、言葉遣いや文章には作者の思いが籠っている(かもしれない)のですから。どんなに文法的におかしな文章があったとしても、作者としてその、一見おかしな文章をこそ読ませたいということが小説世界にはあるようですのでね。

 

ただ、それを先読みしすぎると、何もかもスルーさせてしまう可能性もあるわけで、匙加減の難しさというところを強く感じたものでありました。そうなってくると、「間違いを正す」的な姿勢でもって赤字を入れまくるようなタイプが向いている仕事でもなさそうだとは確かに言えそうですしね。

 

読んでいて「そうであったか…」と思わせられたのは、世の中に出回る書籍・雑誌などのさまざまな印刷物では、必ず「校正」というプロセス(いわゆる専門の校正者を通すというプロセス)を経ているわけではないという点。これには「そうなの?」と。もっとも、特に雑誌に多い(しかも特定の出版社の)ように思いますけれど、「なぜかくも誤字があるのかな」ということがままあるのも、当然なのかもしれませんですねえ。

 

いささかなりとも、それらしきことを仕事でやった経験が、ついつい誤字脱字の類などを拾ってしまうことに繋がっているのかもですが、素人なりにこれも性分ですなあ。いやはや…。