考古学資料を見学に関西大学博物館へ…といいながら、実際に展示されている常設展示室にたどり着くまで寄り道がありましたけれど、さてはてようやっと。入口から覗いただけでも大きな埴輪が見えてきて、どれどれという気持ちが高まりますなあ。

 

 

ところで、こちらに展示されている数々の資料、多くは「本山コレクション」がベースになっているとか。存じ上げませんでしたが、蒐集した本山彦一という方は「明治後半から昭和初期、大阪の財界、新聞界で活躍した」人物だそうで、大阪毎日新聞の社長だったりした人だそうな。この方のコレクションが関大に移管されることになったのは、橿原考古学研究所の初代所長を務めたという考古学者の末永雅雄が当時、関大所属だったからでもありましょうか。と、そんな経緯はともかくも、展示を見ていくことにいたしましょう。

 

 

展示室内のようすはこんな感じです。「簡文館」と言われる建物の外観に特徴を与えている円筒形部分、ちょうどその中に常設展示室があるのですな。同じ楯門内とはいえ、先に覗いた年史資料展示室が(大学としての沽券にかかわることもありましょう)壁面を埋める解説パネルが結構新しいものとなっていたのに比べますと、いささかなおざりにされてしまっているような…。まあ、それこそレトロな建物に見合う展示方法と言えるのかもしれませんけれどね。

 

ともあれ、高槻で新池ハニワ工場公園なども見て来たすぐ後だけに、やはり真ん中に置かれた大きな埴輪は気になりますですね。クローズアップにしてみますと、このように実に装飾的にものでありましたよ。

 

 

常々、縄文土器の創意ある意匠に比べて弥生土器は実用一点張りで…なんつうふうに受け止めておりましたけれど、弥生から引き続く古墳時代、(土器ではありませんが)装飾性を取り戻したのでありましょうか。それとも祭祀用だからこその特別感でしょうかね。表示は「しめすへん」のつくりに「蓋」が付いて「きぬがさ」と読む「きぬがさ形埴輪」とありましたですが、もしかしてこれ、本当は「ころもへん?」と。何せ「きぬがさ」と言うくらいですので。

 

と、漢字表記はともかくとしてこの埴輪、垂仁天皇の皇后である日葉酢媛命の埋葬された御陵(奈良市山陵町)で発見されたもの(復元模型)であるとか。この埋葬の時が埴輪のそもそもの始まりとして、日本書紀には記されているようで。よく知られた話ではありますが、展示解説にはこのように。

…葬送にあたり殉死は昔からの習慣であるがよくないことであるので、これに替るよい方法がないかと天皇が尋ねられたところ、野見宿禰が土で人や馬や色々な形のものを造ってそれを陵にたてればよいと進言し、皇后の陵に採用された。これを「埴輪」又は「立物」と名付け以降の法則(のり)となったことが記載されている。

現物は宮内省(当時)で保管中、関東大震災に遭って消滅してしまったとは、残念なことで。伝承にもせよ、皇后の葬送に際して埴輪を副葬する始まりとあってはかように手の込んだものが作られたようにも思えるところですなあ。

 

 

展示にはもちろん縄文時代の土器・土偶などもたくさん(遮光器土偶も!)ありましたですが、ここではもひとつ大きな物に目を向けてみようかと。銅鐸でありまして、かようにいずれ劣らぬ立派な大きさですな。

 

 

取り分け左奥にあるものは実に大きい。安満遺跡公園歴史拠点の展示館にあったサンプルがご家庭用としますと、こちらは大きな祭祀場で用いられたのでもあるか?…と、解説を参照してみますと、これが何ともびっくり!贋作銅鐸であるということでして。

江戸末から明治初期、古物蒐集家をだますために制作された贋作銅鐸である。今の考古学では、鰭に付いた渦巻が三角になっていること、鋳造の際に型を保持する穿孔がないこと、重すぎることなどから、贋作であることがわかる。

 

骨董品の世界にはあれこれ胡散臭い出物があることは、映画『嘘八百』あたりでも描かれるのを見るまでも無く想像されるところですけれど、よもや「銅鐸よ、お前もか?!」とは。右側にちらりと見えている本物の鰭部分が半円形なのに対して、この逸物はなるほど三角形になっています。また、頭のてっぺんに付けられた飾りがいかにも好事家を萌えさせるようなあざとさがありますなあ。とは、解説を読んだからこそ言えることですけれどね。

 

 

さて、展示は弥生時代から古墳時代へ移りまして、煌びやかな金銅製の馬具が並んでおりますな。人が用いる装飾品を見てもあまりぴんと来ないところがありますが(あくまで個人的にですが)、こんな馬具でもってきらきらと馬を飾ったのであるなあとは、昔の人がどれほど馬を頼りにしていたかが偲ばれますですね。それこそ、ちょいと前に山梨県の北杜市考古資料館で見ましたように、馬の供給地としての「牧」が重要であったことも思い出されるところです。

 

 

と、展示は飛鳥・奈良時代以降へと続いていくのですけれど、発掘品?としてこの時期で最も関心を呼ぶものが、実は屋外にあるというですので、そちらの方へ移動することに。そのお話でもって、摂津高槻紀行とそのついでのお話は大団円を迎えることになるのでありますよ。では、次回に。