ということで、また今城塚古代歴史館の展示に戻ってきましたですが、かようなコーナーがあったりしたものでして。古墳造営に関する展示解説なのですなあ。まずは「今城塚古墳の設計」として説明はこのように。
今城塚のように大きな古墳は、「寿陵」といって、生前から形や大きさを決め、墓所を定めてつくりはじめたと考えられます。…実際の古墳づくりは、草木をはらい、地鎮のまつりをおこなって、現地に古墳の設計図をうつすことからはじまりました。土を掘る場所、積む場所が決まるといよいよ大土木工事が動き出します。
作業にはこんな工具類も使われたようですけれど、とにもかくにも土を盛るというばかりではなかったようで。多くの古墳は今でこそ土の山、という以上に木々の繁る丘のようになってますが、そもそも墳丘には葺石がなされていた…とはよく知られるところながら、どうやら石積みは墳丘の外面ばかりではなかったようです。
いくら叩いて固めるとはしても、大きく積み上げれば積み上げるほど、人工的に盛った土ばればこそ雨水でじわじわ崩れてくるてなことにもなりましょう。その対策として、墳丘の内部にも石積みのあることが発掘で分かったそうな。沁み込んだ雨水を墳丘内の敷石層で受け止め、外部に流すための排水溝が作られていたのだそうです。
その上にさらに土を盛り重ねて墳丘とし、仕上げにまた葺石をしたのであると。ちなみに下の解説は外側の葺石のようすですけれど、正面に小さく、いかにもな形をしているが排水溝の出口ですかね。
ちなみに、排水溝にしても外面の葺石にしてもたくさんの川原石が必要ですが、用いられたのは「古墳から1km東を流れる芥川の川原石」ということです。が、同じく石を使うといっても、実際に大王のための石棺ともなりますと、近所から採ってくるという程度のお話ではないようですな。
発掘によって見つかった石棺材の破片を調べると、九州熊本の阿蘇ピンク石(馬門石)、兵庫の竜山石、大阪と奈良にまたがる二上山の白石、この3種類であったとか。解説に「大王墓の築造にいかに広範な資材と労働力が結集されたかがうかがえます」とあることに、「なるほどねえ」と思ったものでありますよ。
石棺の再現模型と棺の中にはこんなふうに葬られたのであろう再現がありましたですが、なんだか覗き見るのがちと趣味悪いような気も…(笑)。副葬品として銅鏡などが見えてまして、発掘ではたくさんの副葬品(の残骸?)も見つかっておると。甲冑の部分を元に、これまた再現したものがことちらになるようで。
なにやら妙に「かっちょええ!」ですな。古代の甲冑といえば、どうしても埴輪に見る素焼きの植木鉢色を思い浮かべてしまうところながら、大王はかかる甲冑を身にまとい、馬具で飾った愛馬にまたがって号令をかけたのでありましょうか。継体天皇の時代、即位はしたもののなかなかヤマト中央(奈良盆地)に入れなかったり、また磐井の乱があったりでしたしね(もっとも九州の乱に大王自ら出馬したとも思いませんが)。
そんなこんなの展示解説を見てなおのこと、継体天皇陵墓は今城塚古墳なのだろうなあと。ですが、宮内庁見解としては太田茶臼山古墳こそ、なのですよねえ。ともあれ、この際ですから太田茶臼山古墳も訪ねてみることにしたのでありました。