先日に東響の演奏会で川崎に出向いた際、立ち寄った浮世絵展。以前から川崎浮世絵ギャラリーなる施設のあることは聞き及んでおりましたですが、この際とばかり立ち寄った次第です。駅に隣接する市立図書館などが入っている建物の片隅にこぢんまりとギャラリーはありました。

 

 

開催中であったのは折しも!『広重ぶるう』を読んでいたタイミングで、歌川広重の『行書東海道』、『隷書東海道』を宿場ごとに並べて展示するという企画、個人的には誠にタイムリーであったわけで。

 

「生涯のうち、20種以上もの東海道シリーズを残し」たという広重ですけれど、最初のものこそ『東海道五十三次』というタイトルでいいところながら、その後に東海道シリーズが次々作り出されるに及び、他と区別するために「保永堂版」と言われることがもっぱらでありますな。これに対してその後のシリーズを出すにあたっては、オリジナル・シリーズとの区別から『〇〇東海道』と呼ばれることが多いようで。

 

本展で取り上げられている『行書東海道』、『隷書東海道』もそうした類でありまして、他にも『狂歌東海道』とか『美人東海道』なんつう呼ばれようをするものもあるようです。ただシリーズ全体の名付けだけでは、宿場ごと個々の作品は「いったい、どのシリーズだったっけ?」ともなりましょうから、少々分かりやすくという配慮でもあるのか、赤短冊の中に置かれた「東海道」の文字が行書体で書かれていたり、隷書体で書かれていたりと。小さくて見えないとは思いますが、フライヤーでは同じ原宿(誤解は無いと思いますが、静岡県です)を描いて、上が『行書東海道』、下が『隷書東海道』になっておりますよ。

 

 

ちなみに保永堂版(1833~34年)の原はこんな感じでして、やはり富士のお山がよく見える場所として『行書東海道』(1842年)でも『隷書東海道』(1847年)でも一様に富士山が大きく遠景に描かれておりますな。さりながら山の形をよく見れば、違いが表れておりますですね。最初の保永堂版ではかなり縦に伸び上がった形をして枠外まではみ出して描かれている。なんとはなし、葛飾北斎を意識しているのでは…と思ってしまうところです。

 

これが『行書』、『隷書』と時代を経るに及んで落ち着いた山容になってくてますね。よりリアルな富士の姿とも思えますし、どっしり感はむしろ後年の方がイメージしやすいような。最初の方は富士が日本一高い山であることを誇張しすぎな気もしたりするわけです。

 

しかしまあ、東海道を描くといって名所・名物を取り入れるにせよ、毎度同じことの繰り返しではすまなかろうと思うところながら、今回の並んだ展示を見て結構同じ題材を取り上げているのだなと。それでも、揃い物としてシリーズ全体を流れる雰囲気にそもそも違いを設けているあたり、広重の工夫であり、また技術でもあろうかと思うところです。

 

もちろん違いは何も富士山に限った話ではありませんで、押しなべてですけれど、『行書』は画中に登場させる人物に目を向け(『広重ぶるう』の中で触れられておりましたように、広重は「人に興味がない」というあたりを気にしたのでもありましょうか)、その後の『隷書』ではどちらかというと、そのあたり気持ちをふっきって、風景画の広重、名所絵の広重に自負を抱くようになったのかもしれません。

 

ちなみに訪ねたとき、会期は後期展に入っておりまして、お江戸日本橋から掛川宿までは前期展で展示済みとなり、袋井宿から三条大橋までが展示されておりましたので、関東者にとっては風景として馴染み薄の印象で、説明文を頼りに見ていったりしたわけです。そんな中、街道筋、宿場を描いて登場するのが「留女」と言われる客引きで、広重も御油宿の景色として描いておりますけれど、なんでも御油宿とお隣の赤坂宿は距離がかなり短いため、通り過ぎてしまう客を引き留めるのにやっきになったのであると。つまりは、描かれるだけあって「留女」はそれだけ御油宿の名物で、腕や荷物をつかんで離さないといった強引さは本当のところであったのでしょう。

 

広重関係の美術館やら展覧会やらで、東海道シリーズは何度も目にしているように思いますが、揃い物で数が多いだけに何となく流して見てしまったりもするところながら、やっぱりじっくり見れば見たなりのお楽しみはたくさんあるのであるなと、改めて感じた次第なのでありました。