ちょいと実際の演奏で聴きたい曲がありましたので、東京交響楽団の演奏会@ミューザ川崎に行ってきたのでありますよ。演奏会運営といいますか、そんな点にもオーケストラそれぞれに個性があるようで、ひっさしぶりに出かけた東響の演奏会では終演時、カーテンコールの際には(スマホか携帯限定で)写真を撮っていいとのこと。結構厳しく会場内の撮影不可というのが一般的ですけれどね。
天井桟敷ともいえる席で聴いていましたけれど、初めてとなるミューザ川崎のコンサートホールはなかなかにユニークな構造ですなあ。ステージを包み込むように客席が配置されているのですが、上から下へ(下から上へ?)らせんを描くように席が配されて左右非対称になっているのには、自席を探すのに難儀する方もおられるのではと。何せクラシック音楽の演奏会に来場する方々の平均年齢の高いこと、高いこと(笑)。
それはともかくとして、聴きたい曲といいますのはブルックナーの交響曲第2番。プログラムとしては、これをメインとして前半にシェーンベルクとウェーベルンの手になる20世紀音楽の小品が置かれて、何とも渋い(地味な?)選曲でありましたよ。余り聴く機会の無い曲が掛かるとつい釣られて…というたちの者には大層魅力的に思えたものです。
ウェーベルンの「パッサカリア」は、新ヴィーン楽派の音楽を集めたカラヤンの3枚組CDに入っていますので聴いたことはあるものの、シェーンベルクの「5つの管弦楽曲作品16」の方は、そのいかにもな20世紀音楽っぽさについつい曲は違えど、かつてカンディンスキーがシェーンベルクの演奏会に触れて「印象Ⅲ(コンサート)」を描いたのを追体験するような思いでありましたなあ。
というところで、肝心のブルックナー2番ですけれど、当日のプログラムに「お知らせ 楽章順の変更について」なるものが差し挟まれてあったのですな。一般に第2楽章とされるアンダンテと第3楽章のスケルツォを、今回は入れ替えて演奏するということ(とそのほかにもあれこれ)について、指揮者ジョナサン・ノットの説明が書かれてあったという。
理由の一つにブルックナーが最初に書いた第1稿の順番を生かしたということがあるようですけれど、同じプログラムの中に別の解説者が書いた一文では「これ(スケルツォ、次いで緩徐楽章となること)は…ブルックナーの意図とは考え難い」とあって、実際に第1稿による初演段階でも緩徐楽章、スケルツォの順に演奏されたと紹介されていたりするのでありますよ。
ブルックナーという作曲家は自信なさげな人であったのか、傍からあれこれ言われると「そんなもんかいね」と書きかえたり、自身でも完成形に思いまどって幾度も作り替えるものですから、バージョンがたくさん出来てしまったりしていますけれど、そうした中でどれを採用するのかは演奏する側の考え方次第にもなるわけですね。
プログラムノートの解説を見れば、一般的に通用している緩徐楽章、スケルツォの順に分がある気がしてきますけれど、ブルックナーの本意は逆だったものの、周りからとやかく言われて初演で緩徐楽章を先にもってきたのかもしれん…てなふうに思ってもしまうわけなのですね。
この辺、確かな理解があるわけではありませんので、これ以上の深入りはしませんですが、今回、スケルツォ、緩徐楽章の順で演奏されたところを聴いてみた印象として、これはこれでありだなと。極めて単純に演奏効果的なところで感じたのは、通例が尻上がりに畳みかけていくふうであるのが、緩急緩急と進んでいく点で全体のバランスが取れるようにも思えたわけでして。
このあたり、起承転結ではありませんが、全体像としてどうまとまりを付けるかは作り手として腐心するところでありましょうなあ。何も音楽に限った話ではありませんですね。大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の先ごろの放送回で、実朝が詠んだ歌の句の順番を入れ替えるかどうか…てな話が出て来たのを、ふと思い出したりもしたものです。
と、またまた話は脇道に入り込みかけておりますが、かねがね実際の演奏で聴きたいと思っていたブルックナーの交響曲第2番、その後の作品に比べて完成度に劣るせいか余り演奏されないところを、たっぷりと堪能してきた演奏会でありましたですよ。