摂津高槻城のそもそもは、室町時代以来、入江氏の居館だった場所を足利将軍の幕臣・和田惟政が修築して入城したのでした。これを高山右近が拡張し、土岐定義の時代に「城」然とさせたところで、岡部宣勝がさらに大きくしてほぼ完成形でもあったかと。城主についてはもそっと何度かの変転があるわけですが、慶安二年(1649年)に永井直清が城主・藩主となって永井家は幕末まで続くということでもありました。

 

とまあ、そんな歴史をたどってきた高槻城にあってその名が後世に知られるのは、和田惟政でも土岐定義でも岡部宣勝でも、はたまた長く続いた永井家の面々でもないのですなあ。ひとえに高山右近に尽きるとでも申しましょうか。何せ城跡公園にはかくも立派な右近の姿を象った像が立っているわけで(いささか出し惜しみしていた感がありますけれど)。

 

 

こうしたことと同様に、しろあと歴史館での展示解説でも右近の扱いはちと特別でもあるような。他の武将たちにはかような単独の紹介コーナーは無いわけで(永井家の長い統治期間に関することは別ですが)。

 

 

ですが、「これはどうしたことか?」てなふうには言うまで無いでしょうかね。その生涯は他の武将たちのいずれとも異なる特異なものであったわけですのでね。この展示解説と城跡公園にあった銅像下の解説板を参照しつつ、その生涯をちと振り返っておきましょう。

 

高山右近は天文二十一年(1552年)頃。摂津高山(現在の豊能町)に生まれたということで。地名ゆかりの名前を名乗って国人領主でもあったのでしょうかね。とまれ、元々摂津在地の人だったわけですが、父・高照(後に飛騨守と)ともに、芥川山城に拠った三好長慶の膝下に入ったことで運が開けてもくるようで。長慶は伝来間もないキリスト教に理解があったようで、家臣の中にはキリスト教に入信する者が多くいたそうな。先駆けとなった父・飛騨守の勧めで右近がキリシタンとなったのは12歳の時だったとか。

 

やがて三好勢は衰運するも、織田信長の命によって代わりに芥川山城に入った和田惟政に高山父子は従うことに。でもって、惟政の死後、その嫡男・惟長との確執から主家を追うことになったのは先にも触れたとおりで、結果として天正元年(1573年)頃、右近は高槻城主となるに至ります。摂津を束ねた荒木村重の配下となりますけれど、天正六年(1578年)に村重が信長に叛旗を翻した際、信長から「降伏するか、さもなくばキリシタン弾圧を覚悟せよ」と迫れらた右近、村重の下には人質として子どもや妹を差し出しており懊悩はあったものの、高槻城を開城したということでありますよ。信仰の一途さがこのあたりにも。

 

本能寺の変ののち、山崎の合戦で勲功を上げるなど羽柴秀吉に与することになっていきまして、天正十三年(1585年)には播磨国明石へと移封となり、6万石の大名となりますが、移封後2年の天正十五年(1587年)、秀吉が発した「伴天連追放令」に伴って、右近は棄教するよう命じられたと。さりながら、これにも頑として応じることのない右近が選んだのはひとりのキリシタンとして生きる道であったのですなあ。

 

領地を返上し、流浪となった右近に手を差し伸べたのは前田利家でして、右近らは金沢に移り住むことに。しばらく客人として遇されたようながら、前田家でも代替わりにつれだんだんと厄介者に見えてきたかもしれません。そんな中でも世は移り変わって徳川幕府の時代、キリシタンに対して出された「禁教令」にも従うことなく、右近には慶長十九年(1614年)に国外追放の命が下されることに。荒波に翻弄される苦難の航海の末、フィリピン・マニラに到着するも齢六十を越えた右近は疲弊しきっていたのか、到着後40日ほどで熱病に冒され亡くなったということです。

 

洗礼名はジュストと言われる高山右近はかくも信仰に生きた生涯であったわけですけれど、高槻城主として城下のあるじとなった右近は積極的にキリスト教振興に努めたのですな。城跡の再開発に槌音喧しい一角には「高山右近天主教会堂跡」を示す石柱が建てられておりますよ。

 

 

脇にある解説板にはこのように。

戦国時代末期、高槻は近畿地方におけるキリスト教布教の中心地でした。宣教師ルイス・フロイスの記録によると、天正2年(1574)に高槻城主高山右近(ジュスト)と父親の飛騨守(ダリオ)は、古社の位置に池や庭園をともなった教会堂を建立し、この教会堂を拠点にキリスト教布教に力を注ぎました。

そして、城跡再開発地区から少々阪急高槻市駅方向へと戻る道沿いに現在のカトリック高槻教会は建っているのでありました。1962年に竣工した建物は高山右近記念聖堂とも言われているそうな。

 

 

ヨーロッパの教会には結構勝手に入り込むにも関わらず、日本ではどうもそういう雰囲気でもなく、教会堂は信者のものといった気がしてしまうものですから、当たり障りなく入口あたりでうろちょろしておりましたが、そのほんのちょっとのうろちょろだけでも辺りには右近、右近、右近でしたですねえ。

 

 

 

 

最後の石碑に書かれているのは「JUSTUS UT PALMA FLOREBIT」、聖書の詩編92編13節にある言葉で「神に従う人はなつめやしのように茂りレバノンの杉のようにそびえます」という意であるとか(新共同訳による)。「justus」は「正しき者」と訳されたりもしますが、右近の洗礼名(ジュスト)でもありますね。右近の顕彰碑にふさわしい言葉が選ばれたのでありましょう。

 

こんなふうに見てきますと、いかにも右近は信仰を貫いた人…となるわけですけれど、一途になればなるほど視野狭窄を起こす可能性はあるわけで、キリシタンには鑑と見える一方で、そうではない人たちには…とも。明石の人たちに城も領民もほっぽりだしたお殿様のように見えたりはしなかったでしょすかね。ちとそんな余計なことも考えてしまったりしたのでありましたよ。