大阪・高槻の城跡公園を通り抜けて来たわけですけれど、かつて何度か城主が変わる中で都度修築が施され、最盛期には三重の堀を巡らし、三層の天守を擁していた高槻城の面影を偲ぶのは難しくなっており…。

 

 

往時の姿はこのようなであった…という模型の展示解説などのある高槻市立しろあと歴史館を訪ねて、もそっと高槻城を知っておこうと考えた次第でありますよ(ちなみに、上の写真の模型は下側が北の方角にあたります)。

 

 

高槻という町は、北に西国街道、南に淀川を抱えて交通の要衝、物流の拠点であったとは先に触れたとおりですけれど、そこに城下町を従えたお城が築かれるのは後のこと。古くは、現在の高槻市街を見下ろす北西の山の端に芥川山城という山城が築かれてあったのだそうでありますよ。築城は16世紀の前半で、平城の高槻城とは違った戦闘モードを醸した城であったことでしょう。城のある山が三好山と言われているのは、天文二十二年(1553年)以降、この山城に入ったとされるのが三好長慶だったからなのかも。

 

 

室町将軍が擁立されないままに畿内に号令を発した稀代の人物だけに、歴史館の方から上のフライヤーを渡されて「次回の特別展ですので、ぜひまた!」と言われたときには、ついついその気になりかけてしまうも、そうそう東京からは何度も来られたませんですね、残念ながら。

 

と、余談はともかくとして芥川山城ですけれど、展示解説と併せて館内で配付されていたリーフレットも参照しつつ、実態に迫っておこうと思うところです。それにしても、なんとしてでも素通りされたくない町・高槻は観光案内の類いが実に豊富ですなあ。

 

 

先に芥川山城の築城は16世紀前半としておりましたが、「永正13年(1516)までに摂津を束ねる守護の細川高国が完成させ」ようでありますね。細川高国といえば、室町幕府の管領ですけれど、これが同族・細川晴元に討たれ、その晴元を追い出した三好長慶は室町将軍・足利義輝までも今日から追い払って、芥川山城から「天下」(近頃はこの言葉が畿内を指すとよく言われておりますね)に号令をするに至ったそうな。

 

摂津最大とも言われる大きさであっただけに多くの家臣を城内に住まわせて、後に戦国の梟雄の一人に数えられる松永久秀もここに住まったと。ついでですが、阿波出身説とともに「古くから久秀は高槻の東五百住(ひがしよすみ)出身だと伝えられ、近年の歴史研究によってその可能性がさらに高まってきました」と、またまた高槻への歴史詣での材料が増えそうな気配でもあります。

 

とまれ、やがて後の将軍・足利義昭を奉じた織田信長が三好一党を追い出して、義昭ともども芥川山城に入城するのは永禄十一年(1568年)のこと。ここで「面会を求める多くの武将や商人、さらには天皇の勅使を迎えました。そして新たな天下支配の枠組みを示した後、念願の上洛を果た」すことになるとは、なかなかに歴史の転換点を偲ぶ場所でもあるような。

 

一端は将軍家直臣の和田惟政が城主となりますが、翌年の永禄十二年には惟政は高槻城を修築して移っていき、交通の要衝・高槻の重心も高槻城へ置かれるようになっていったようで。三好一党を阿波に押し込めて、足利将軍家が室町御所に返り咲いたところで、天下安寧と見て平城の高槻城で人の往来や物流に目を配ることに主眼を置いたのでありましょうか。結果的には戦国乱世はまだまだ続くとになるわけですが、和田惟政は知る由もなく…。

 

かかる歴史の渦中にあった芥川山城を知れば(実際、高槻に行って初めてその存在を知ったのでして)、その遺構を訪ねてみたくもなるところながら、今回はちと余裕がありませんで。歴史館の写真で見ますと、石垣や堀切、建物跡が残されているということですが。

 

 

話はすっかり芥川山城になってしまいましたですが、次にはその後を受け継ぐ高槻城のお話に移ろうと思っておりますよ。