すっかり芥川山城の方のことで長引いてしまいましたですが、話を高槻城に戻すとして。

 

三好勢との戦いを制して足利義昭を幕府将軍に付けた織田信長は、摂津の守りの一人として幕臣・和田惟政を芥川山城に配し、この惟政が平地にあった入江氏の砦を修築した高槻城に入るというところまで、話は進んでおりました。ちなみに入江氏は「足利尊氏に従って南北朝時代に駿河国(静岡県中部)から高槻に移ってきたとされ」(「たかつき歴史Web」による)、先に松永久秀は高槻出身かも?と触れましたが、どうやら「この入江氏の遠縁にあた」るとも言われているそうな。

 

ともあれ和田惟政ですけれど、室町将軍の幕臣といえば一昨年(2020年)の大河ドラマ『麒麟がくる』で三淵藤英や細川藤孝、一色藤長らが活躍し、後には明智光秀もと思い浮かびますが、はて和田惟政は登場していたかどうか…。

 

まあ、惟政は永禄十二年(1569年)の高槻城入城後2年にして、荒木村重との戦いに敗れて亡くなってしまうのですな。その後は嫡男の惟長が受け継ぐも、父・惟政が摂津の地元出身から取り立てた高山友照とその息子・右近に人望が集まる(ということは惟長の人望は今ひとつであったのか…)と、これを妬んで暗殺を謀る(あたかも上杉定正が太田道灌を謀殺した如しですなあ)も、返り討ちにあってしまったようで。とまあ、そんなこともあって和田の名前はあまり浮上してこなかったのでしょうかね…。

 

そんな経緯を経て、天正元年(1571年)高山父子が高槻城の主となるのですな。地元のぽっと出が城持ち大名になったわけですね。これを信長は許容していたわけで、信長が出自に拘らす才覚を愛でたことは秀吉のことを思い浮かべるまでもなかろうかと。

 

キリシタンである高山右近の時代、高槻はキリシタンの町としても知られるようになりますけれど、そのあたりはまた別に触れるとして、信長没後に秀吉の世となった天正十三年(1585年)に右近は明石へと国替えとなり、高槻は一端、秀吉の直轄に。その後、関ケ原の戦いを経て実権が徳川に移ると、高槻も家康の直轄へと移り変わります。

 

元和元年(1615年)になって譜代の内藤信正が入って高槻藩が成立するも、翌々年には土岐定義と交代、さらに翌々年の元和五年(1619年)には松平家信(家康の従弟の子)、次いで寛永十三年(1636年)に岡部宣勝、寛永十七年(1640年)に松平康信(かつて高槻藩主であった松平家信の子)と城の主が何度も変わりますけれど、この間に高槻城はどんどん立派なお城になってもいったようで。

 

 

ようやっと落ち着きを見せるのは慶安二年(1649年)に永井直清が城主・藩主となってから。永井家は幕末まで高槻にあって版籍奉還まで続くことになったそうな。で、画像が小さくて恐縮ながら、左側に「城の移り変わり」が示されておりまして、一番上が和田惟政時代の高槻城になります。基本的にはまだ城を巡らせた城館のイメージ。城を持たなかった武田信玄の躑躅ヶ崎館を思い出したりもするところです。

 

その下、二番めにあるのは高山右近の時代。外堀を設けて城下町を囲い込んだような形ですが、当時の高槻を訪れた宣教師の記録には「水の充ちたる広大なる堀と周囲の城壁」といった記載があるようで、16世紀末当時の城はこれくらいでも宣教師の目を引くものだったのすなあ。

 

と、「このくらいでも」と言うのはその次、さらにその下と後のイメージとしていかにもな城と城下町の姿になっていくからでして、3番目に見えているのが土岐定義の時代。この時代に三層の天守が設けられたようですね。最後の仕上げは岡部宣勝で西側に出丸が築かれて拡張工事は終了したのであると(下の最終形の図もまた北が下になっています)。

 

 

高槻城跡の再開発エリアのすぐ北側に隣接した野見神社には江戸後期の高槻城の姿を描いた絵馬があるそうで、しろあと歴史館の写真展示で見ても、三層の天守というのが際立って描かれていることが分かりますですね。まあ、もちろん誇張はありましょうけれど、後の者がイメージする城らしい城の姿かと。

 

 

ついつい思い浮かぶのは『荒城の月』ですかね。♪春高楼の花の宴……昔の光いまいずこ…、まあ、高槻城だけではない話なのですけれどね…。