東京新聞の夕刊、新作映画評のコーナーにいつもひとつだけ旧作の紹介が載るのですけれど、つい先日はアッバス・キアロスタミ監督の『友だちのうちはどこ?』(1987年)という一作を取り上げてましたですね。未見でしたので、これを機会と見てみることにしたのでありました。
例によって(?)プロの俳優を使わずに撮影する村の住人や子供たちをオーディションで選ぶようすは、後の映画『オリーブの林をぬけて』に劇中劇のように差し込まれていましたけれど、この映画でも登場する人々の素朴さ、純朴さ、ありのまま感はいわばドキュメンタリー映像ふうでもあって、「ああ、キアロスタミ!」と思ったものです。
でもって、昨年(2021年)秋に渋谷のユーロ・スペースで『そしてキアロスタミはつづく』と題して特集上映された際のHPには「友だちの家を探して、少年は必死で駆けていく。子どもの純朴さと不安をリアルに映し出した至福の傑作」とある点に否やは無いものの、実は個人的にはそのこと自体以上に、主人公の少年アハマッドが「大人たちに翻弄される」ところにこそ考え込んでしまったようなわけで。「うむむむ…」と。
学校の先生もなかなかに厳しい。アハマッドのお母さんも彼のもの静かなところに付け込んでしまっているようなところがある。そして、極めつけはアハマッドの祖父でしょうかねえ。間違えて持ち帰ってしまった友だちのノートを返しに行かなければならない。お母さんからはパンを買ってこいと言われている。急いた気持ちのアハマッドであるのに、彼を見かけたおじいさんは「家からタバコを持ってこい」と言いつけるのですな。
実は、自分のポケットにタバコは入っているのですが、おじいさんの持論として「子どもには厳しくしなきゃいかん」と。厳しいしつけというよりも、やっていること自体は嫌がらせに等しいわけですけれど、当の本人としては「(理不尽だろうとなんだろうと)子どもに言うことをきかせる」ことが「しつけ」だと考えているようで。自らの思い出話として語るのが、自分が子どもの頃にはよく父親から殴られたということ。そして、小遣いをもらったことは忘れても、殴られたことは忘れないとも。
そんな殴られた思い出というのが、おそらく自身が子どもだった頃には嫌な思いであったろうに(どう考えてもそれは間違いないでしょう)、年月を経て顧みたときに「あれこそしつけであった」といった信念に代わってしまっているのですよね。全く疑うところなく。どうしてこうなってしまうのであるかな…と。
思い浮かぶのは(今ではおそらく違うのでしょうけれど)軍隊などで想定される上官からのしごきというものでしょうか。入りたての頃には叩かれまくり、それを掻い潜って自らが指導する立場に立ったとき、あのしごきがあったからこそ今の自分があって、同じことをしてやらねばならんと、世代を超えてしごきが繰り返されていくような。いわば「負の連鎖」のようなものですけれど、どこかしらで「違うんじゃね?」と思い返すことは無いのでしょうかね…。
あまり適切な例ではありませんけれど、営業という仕事の場において結構な無理難題をふっかける顧客がいたとして、そんなのに対応していると場面を変えて自分が顧客の立場に立ったとき、ここぞとばかりにあれこれの要求を突きつけるようなことをして憂さ晴らし?をする人もいるのかも。個人的には「自分はそういう客にはなるまい」と反面教師的に考えるのですが、世の中ではそれが単に御しやすい客としかならなかったりも。世知辛いですな。
ともあれ、実に実に純朴そうなアハマッド少年なのですけれど、囲まれた環境からどんなふうに成長していくのか。「なんだかなあ…」と思ってみてしまったおじいさんも、昔むかしは純朴な少年だったかもしれないのですしね。ま、この物語はそこまで追いかける大河ドラマ的なビルドゥングスロマンではないですが、子どもは誰しもやがて大人になる。その時にどうなるのであるかなあ…と行く末を考えてしまったりするのでありました。