イランの映画「オリーブの林をぬけて」、アッバス・キアロスタミ監督の作品ですけれど、

見始めて「おや、これ見たことあるな…」と思い足りつつも結局最後まで見てしまいましたですよ。

 

 

とまれ、WOWOWプラスでのあらすじ紹介にはこんなふうにありますな。

大地震に見舞われたイラン北部の村で新作映画の撮影が始まり、映画監督は、美しい娘タヘレをヒロイン役に起用する一方、彼女の相手役の青年には、撮影キャンプにいる雑用係のホセインを抜擢することに。2人が劇中で演じる役柄は、大地震の翌日に式を挙げた新婚夫婦という設定。ところが何と、実はホセインは以前タヘレにプロポーズしたものの、彼女の両親から求婚を断わられた過去があることが判明し、撮影は難航する事態に……。

撮影の難航とは、ホセインの台詞にタヘレは言葉を返さないため、撮り直しの連続で。

まあ、タヘレのそんなようすも無理からぬことではあるかなと。

撮影の合間にもしきりにホセインは猛アタックを繰り返すのですから、かなりうんざりしてもおりましょうかね。

 

しかしながら、タヘレの無反応に比して、ホセイン君の負けじ魂はすさまじく。

タヘレへの求婚を両親から、そして祖母からも撥ね付けられた理由というのが、

ホセインは読み書きができず、家も無いからというものですけれど、

ホセインにすればとにかく「君を幸せにしたいんだ」の一点張りなのですね。

 

ただ、慰めに回る映画の中の監督役にこぼして曰く、

「自分は字が書けないけれど、タヘレは書ける。だから子供の勉強も見てやれる」と言い、

そもそも字が書けるどうしで結婚するとか、家を持っているどうしで結婚するとかでなくして、

字が書けるものは字が書けないものと、家を持っているものは家をもたないものと結婚すべきではないかとも。

家が二つあってもどのみち両方には住めないのだからと。

 

ホセイン君の気持ちはよおく分かるものの、これを一般化して語ってしまうのは

いささか身勝手な感じもするところ無きにしも非ず。

ほぼ映画の全編にわたって口説きっぱなしのホセインは基本的には哀願調で迫るも、

最後の方ではさすがに捨て台詞的な言葉を投げかけることになってしまうのですなあ。

「それを言っちゃあ、おしまいだろうに」と思えるような。

 

なんとか撮影が終わり、無言でひとり立ち去るタヘレの後を追うホセイン君。

丘を越え、緑の草原を通り、オリーブの林をぬけて歩き続けるタヘレは終始無言。

諦めかけたホセインからはタヘレの後ろ姿がどんどん遠ざかり、もはや見えなくなくかというときに、

改めて意を決したか、タヘレのもとに駆けていくホセインですが、

このあたりでカメラがとらえているのは、点のような二人の姿なのですよね。

 

追いつき追いつかれたホセインとタヘレ、瞬時接近遭遇があったように見え、

やがてホセインはもといた方に猛ダッシュで戻って行く姿が遠く見えるのですなあ。

この間、語りは一切なしですから、どういうことになったのかは見ている側が

流れを読んでそれぞれに想像するしかないわけですが、これもまた映画ならでは手法であるかなと。

 

演技を見せるという点では芝居と映画に近しいところはありますけれど、

基本的に芝居は劇場空間という観客との距離が一定な中で見せるものであるのに対して、

映画の特徴のひとつには演技者と観客との間を近くもできれば、遠くもできる点がありましょうね。

 

映画ならではのクローズアップで近く接近して見せる方法はいくらも使われていますけれど、

あえて遠く遠くからのロングショットで見せるというのはそうそうはないような。

 

さて、お話としての結末は果たしてどうだったのでしょうか。

ホセイン君、最後の猛ダッシュからすると、晴れて思いは成就したと思うのが流れかもしれかもしれません。

純愛を貫いたホセインということにもなろうかと思うところながら、言ってはいけない捨て台詞があったり、

監督とのやりとりで垣間見えた、いささか独りよがりな考え方からして、この先のふたりを危ぶむ気にもなり、

それ以前にタヘレもそういう想像をして結局拒絶し、絶望のあまり駆け出すホセイン…と見えなくもない。

 

とまあ、十分に最後まで楽しみようのある映画だとも言えましょうかね。

だからこそ「見たことあるな」と思いつつ、最後まで見てしまったわけでして。