ひょんなことで記憶の蓋が開きますと、関わりあるあれこれの記憶もまた(好むと好まざるとに関わらず)蘇ってきてしまいますなあ。たまたまにもせよ、先に映画『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』を見た頃には「怪獣が好きだったのだなあ」という思いもまた。で、そのついでに思い出すこともあるわけで。

 

先の映画は1966年末の公開ですけれど、同年にはTVで『ウルトラQ』、『ウルトラマン』が放送され、いわゆる怪獣ブームにもなってきた時期でありますね。そうした怪獣人気を東宝の独り占めにさせておくはずもないわけでして、他の映画会社も参入してくるわけですな。大映ではいち早く『ガメラ』を1965年に送り出しておりましたが、1967年には松竹も怪獣映画を製作する。その名も『宇宙大怪獣ギララ』とは?これ、未見だったのですよねえ。

 

 

ということでまたVODのお世話になって見始めたところ、オープニングのクレジット場面(昔の映画は最初にキャスト・スタッフが表示されましたですね)だけでのけぞらんばかりに驚いてしまったのですなあ。何がってそこに付けられた音楽に、です。

 

東宝の怪獣映画は『ゴジラ』にその淵源がありますから、最初に担当した伊福部昭の重厚な管弦楽曲が印象的で、その後を承けた佐藤勝の音楽もまた重みのある路線で。さりながら、こちらの松竹版怪獣映画はそれとは一線を画する独自性を狙ったのでしょうか、音楽をいずみたくに任せたという。永六輔の作詞によるコンビでもって、『いい湯だな』とか『女ひとり』とかを生み出したヒットメーカーで、もそっと個人的に近しいところではTVのいわゆる青春ドラマの主題歌(『飛び出せ!青春』の「太陽がくれた季節」とか『われら青春!』の「帰らざる日々のために」とか)が思い出されもしますですね。

 

要するに昭和歌謡的なる音楽の世界では大御所ではありましょうけれど、怪獣映画のオープニングがあたかも青春映画の幕開けのような感じになっているのに、まずもって腰をぬかさんばかり…であったわけです。まあ、音楽のことはそれくらいにしておきますが、当時子供として見ていたならばどう思ったかは今となっては想像しようもないながら、今になって見てみますとあらゆる部分で東宝に一日の長ありということばかりを考えてしまうのでありますよ。

 

例えばですが、怪獣などの造形をとっても先に瑞穂町で見たように特撮造形師・村瀬継藏の存在の大きさが改めて偲ばれたりしますし、そもストーリーではギララを地球に持ち込ませる原因となった謎の宇宙船についてのシークエンスは未回収で終わってしまいますし…。

 

とまあ、東宝との比較の話はそのくらいにして、ギララが次々と町を破壊して歩くのを見ながら「ん?…」と思うところが。怪獣映画に町の破壊シーンはつきものであって、セットで街並みを再現すること、そして再現された街並みを破壊する場面、それぞれにどれほどの迫真性があるかが見せ所でもありましょうけれど、そこには「怪獣は狂暴で、町を破壊するもの」という暗黙の了解があるかもですが、ちょっと考えてますと「なぜ破壊するのか」は必ずしもはっきりしていないような。

 

先に見た『南海の大決闘』でエビラは船を襲いますけれど、それは自らの領海を侵犯した船を破壊しているだけで、地上にまで上がってきて何かしら破壊するようなことはしない(もっとも海から出ると干上がってしまうからかもですが)。また、ゴジラは謎の組織の研究所を破壊するものの、単に島の中を歩きまわっていたら研究所のところに来てしまい、研究所の側が周囲に接地した高電圧線に触れたが故に「痛い、痛い」と大騒ぎ。なまじ体が大きいだけに、研究所は破壊しつくされて…てな具合でもあろうかと。

 

もちろん、エビラやゴジラが暴れるのは「こういうわけなのですよ」という理屈付けが示されるわけではありませんので想像にはなりますが、想像のつく範囲内といいましょうか。で、翻ってギララは…と考えたとき、どうも「怪獣は町を破壊するものなのだ」ということありきのような気がしたのですなあ。

 

ただ、このことが「おきまり」であるかというと、必ずしもそうではないような気がするのですよね。端的な例として、『ウルトラマン』にシーボーズという怪獣が出てきますけれど、うっかり?地球に落っこちてきてしまった彼奴は早く宇宙に帰りたくてしょうがない。ひたすらに駄々をこねる子供のように当たり散らすも、体が大きいだけにヒトから見れば脅威にも見えてしまいましょうなあ。

 

と、ここまで思い巡らしてギララの場合を振り返りますと、彼奴もまた自らの意思で地球にたどりついたわけではありませんで、たまたま地上で自らの栄養源となる原子力エネルギーを求めて彷徨う中、都市を通過すれば建物は破壊されてしまうことに。それでも、わざわざ港にある船舶を持ち上げて放り投げるシーンがありまして、このあたり「破壊ありき」と感じたところながら、シーボーズのことを想起すれば、ギララは腹が減ってどうしようもない状況で、不機嫌になった子供がものを投げて当たり散らすのと似ているのかもと思ったり。そんなふうにも考えられなくはないとかなりの深読みになりましたですが、ギララ(の製作側)にはおそらくそういうつもりはないでしょなあ(笑)。

 

ともあれ、怪獣ブームはその後しばらく続くものと思いますが、松竹が怪獣映画を手掛けたのはこの一作のみ。柳の下に二匹目のどじょうを狙うにしても、簡単ではなかったということかもしれませんですねえ。