函館・基坂のあたりだけでさくっと元町を語ってしまいましたですが、本当はあれこれの逸話に事欠かない事物に行き当たるのですな。観光スポットも山のようにあり、分けても有名なハリストス正教会はまさにしかりながら、今年2022年の年末まで修復工事が行われているそうでして、外側から塀で囲われてしまっているらしい…とあって、端から今回はあきらめておりましたよ。

 

と、それはともかく基坂あたりでも、もひとつ触れておきたいところがありまして。場所はちょうど旧イギリス領事館の向いですな。こんな記念碑が建てられているのですなあ。

 

 

曰く「ペリー提督来航記念碑」。前面には「ペリー提督 来航時の足跡絵図」として黒船ポーハタン号の姿を中心に、「箱館における日米会談」(左上)、「箱館山からの眺望」(右上)、「姿見坂の一景」(左下)、「称名寺の境内」(右下)と5つの絵図が示されているのですね。

 

それにしても、ペリー艦隊が函館まで来ていたことをおよそ考えてもみたことがありませんで…。日米和親条約の締結によって伊豆・下田とともに開港が約束された函館(当時は箱館)を、そりゃあ見分にやっては来ますですね、やはり。幕府から対応を仰せつかった松前藩はあたふたしたようでありますよ。住民たちに示した「御触書」からもそのようすが窺い知れるところです。全十八条に及ぶお達しの中から少々拾っておきましょう。

第二条 アメリカ船が渡来の時には、海岸へ出たり、屋根に登って見物することを禁ずる。
第十条 外国人はお酒が好きなので、お酒は全て蔵へ隠し、店先には置かないこと。
第十三条 海に面した家は、戸や障子には必ず鍵をつけ目張りをして、決して覗き見しないこと。

万一、これらに従わない場合は当人はもとより名主や親族までも連帯責任で処罰されることになっていたそうな。このときのペリー来航以前、蝦夷地にはロシア艦隊をはじめあちこちの国の船が姿を見せていたでしょうに、積極的に交流するかどうかは別としても、松前藩としてはもそっとそうした現実に目を向けて、外国船との対応方を考えて幕府に何らか建言するくらいのことがあってもよかったろうになあ…とは思うところです。

 

どうも松前藩は蝦夷地開拓にしても、アイヌの人々との交渉においても、常に旧態依然の考えが抜けないところでもあったような。もしも英明なというか、先見あるというか、そうした人物が藩主であれば、幕末史もいささか変わったものになったのではとも。ま、そんなようすを幕府が察したかどうか、結局のところ、箱館奉行による直接支配に及ぶのでありますよ。

 

ところで記念碑にある絵図に示された図柄とペリーとの関わりですけれど、箱館山の眺望が描かれておりますのは、到着早々これに登って港のようすを確かめたり、測量したりしたからということで。「姿見坂の一景」とは、ペリーの市中視察の折に艦隊付の画家が描いた町の風景であるとか。さらに称名寺は「開港当初はイギリスやフランスの仮領事館」とされたところだそうで。

 

という具合にペリーと函館は関わりがあるわけですけれど、記念碑のそばにある解説板によりますと、この碑が建てられたのは函館への黒船来航150年(2004年)を視野においた2002年であったとか。ずいぶんと最近のことではありませんか。もっと早くからあってもおかしくはなかったようにおもいますけどね…。

 

おっと忘れるところでしたが、記念碑のそばには例によって立派な立ち姿のマシュー・カルブレイス・ペリー像が。函館山を背に、正面の港をしっかと見据えておりましたですよ。