先に松浦武四郎 のことを書いたりしたときに、
アイヌに関してとんと知識の無いことに気が付いたものですから、
一冊ばかり本を手にとってみたのでありました。
「いま学ぶアイヌ民族の歴史」というタイトルですけれど、
「いま学ぶ」といって古い本では気が抜けたコーラのような気がしてしまうわけながら
幸いにも?2018年4月に刊行されたものとなれば、「いま学ぶ」に偽りなしとなりましょうか。
本の体裁としては、何だか学習参考書でもあるかのような。
単元ごと、最終ページには振り返り学習用の設問が用意されていたりしたものですから。
ま、それはともかくとして、人類史、いわゆる人類の起源から語り起こして
直近のアイヌの現状に至るまでをこれ以上ない形でコンパクトに収めていますが、
和人と接触して以降、アイヌが置かれた環境は長い年月の間、
一貫して過酷なものであったと今さらながらに認識するところでありました。
ちなみに「和人」という表現は聴き慣れない(それこそ認識不足であった証左かも)ながら
「アイヌ以外の日本人または大和民族が自分たちをアイヌと区別するために用いた自称」と
Wikipediaに。いささか含みのある言葉に感じられもしますが、本書でも使われてましたので、
とりあえず。
で、ここで歴史的に本書の記載をなぞって「こんなことがあった、あんなことがあった」と記すのも
備忘のありようとはなりますけれど、むしろざっくりと振り返ってみることにしようかと。
そもそもの話として本書の冒頭には「ヒトとはなにか 人類・人種・民族」という項が立てられて、
「人種」、「民族」という分類概念に科学的根拠が無いことにより疑義を呈しているのですね。
「民族」に関する部分をちと長いですが引用してみます。
人類は、地球上の各地の多様な環境に適応し、長い歴史のなかで言語・宗教・習慣などの文化的多様性を生み出してきた。文化的な特徴に基づいて人間集団を区分する概念には「民族」がある。ただし、「民族」という分類もその基盤となる文化的特徴が先天的な形質でなく、人の成長過程で学習により後天的に獲得されるものであり、生物学的な人類の分類には何ら影響を持たないことを理解する必要がある。
ヒトは歴史の中で、あるグループが別のグループを劣等視することで
自らの側の優等性を(自己満足的に)確認するようなことを繰り返してやってきましたですね。
で、その優等劣等なる区分けの理由にもさまざまなものがありますが、
もちろん科学的に根拠があるものではなくして、
感覚や感情的な側面で考え出されたことでもあろうかと。
冷静には分かり切ったことでありながら、ヒトがそうした冷静さを持てるまでには
ずいぶんと長い時間がかかりましたし、今でも広くあまねく共通の認識になっているとは
言い難いのは何とも残念なところです。
こうした認識の共有の点において、日本は相当に遅れていると言えましょうか。
江戸時代には松浦武四郎が実際に見聞きした差別があり、その後の明治政府以降、
「保護」という名の下にアイヌを和人化するという「同化」の政策が進められたのですよね。
先の引用にあった「文化的多様性」への配慮を大いに欠く形で。
そこから日本は単一民族国家だと思い込みを助長し、
「単一民族である」ことへの違和感を与えるものごとに眉をひそめるようなところが
無きにしものあらず。それが今でも完全には払拭されていないのかもしれません。
このことを考えるとき、実は北方のアイヌはもとより、
南方にも目を向けることもまた必要だろうとも気付かされるところであろうかと。
そしてまた、そもそも「国」という枠組みありきを前提として考えてしまうことにも
疑問を持ってもいいのかもしれませんですね。