先に北島三郎の『函館の女』の歌詞についてあれこれと思い巡らしましたけれど、これでまた思い出したのが同じく北海道の『小樽のひとよ』なのですなあ。鶴岡雅義と東京ロマンチカのヒット曲ですが、『函館の女』のヒットを受けて舞台を小樽に、そして「女」をひらがらなの「ひと」に代えて「よ」を付けた…とは、パクリの域をでないものと思うところながら、ダイナミックな北島三郎の歌唱に対して、東京ロマンチカのボーカル・三條正人の甘い歌声はずいぶんと印象を異にしてはおりますね。

 

ところでWikipediaによりますれば、歌詞には「もっと観光PRを!」と小樽市から注文がつけられたというくらい、公認の?ご当地ソングであるようで。さりながらその歌詞を振り返ってみますと、「粉雪舞い散る小樽の駅」、「小樽は寒かろ 東京も」とあるくらい。もひとつ「ふたりで歩いた塩谷の浜辺」と出てくる小樽市の塩谷海岸は「青の洞窟」(耶馬渓の「青の洞門」ではありません、一応)などの自然景観豊かな絶景スポットでもあるようですから、これが観光PRに繋がるポイントであるのかどうか…。

 

と、ここで「塩谷の浜辺」に続いて「偲べば懐かし 古代の文字よ」と謳われるのですな。ムード歌謡以外の何ものでもないこの歌に「古代の文字って?」とやおら気になってきてしまったわけです。すると、この歌が作られた1967年当時(というかそれ以前からずっと)「古代の文字」と言えば小樽というのが、結構知れ渡ってもいたようなのでありますよ。

 

小樽の港湾地区の北のはずれ近く、海から少々入った山裾に「手宮洞窟」という国指定史跡がありまして、小樽市観光協会HPには「4〜5世紀頃、北海道に暮らしていた続縄文文化の人々が、日本海をはさんだ北東アジアの人々と交流をしていたことを示す大変貴重な遺跡」と紹介されておりまして、何が貴重って、洞窟壁面に線刻画が描かれているというのですな。

 

発見されたのは慶応二年ということですから、まだ江戸時代でしたな。その後、明治のお雇い外国人やら開拓使やらによる調査が行われて、当初は「文字」が刻まれていると考えられたとか。北海道、というか蝦夷地の先住民であったアイヌの人々は文字を持たないところから、この「謎の古代文字」の素性にあれこれの説が浮上して、相当な盛り上がりを見せたのだとか。すなわち「古代の文字」といえば小樽を想起するのが不自然でないということがあったようです。

 

後に小樽のお隣、余市町のフゴッペ洞窟でより多く見つかった線刻画との類似も参考に、今では「文字ではない」という説が大勢を占めているようですけれど、なお「文字である」説も残っているそうな。

 

ただ、この間に示された説の多様さ(突厥文字説とか古代トルコ文字説とか中国古代文字説とか)を考えますと、歴史ロマンが感じられるところではありますね。絵画なのか文字なのかはともかくも、北海道から北東北にかけて豊かな縄文文化を築いた人たちの末裔が、日本海を挟んだ大陸との交流も含め、独自の「続縄文文化」を花開かせた。当然に日本列島の中央集権化を目指したヤマト王権とはぶつかることになって、やがて制圧され飲み込まれていくにせよ、歴史の壮大さを思ったりするわけで。

 

ああ、ロマンチカ…と、こうしたところに思い至ることになる『小樽のひとよ』を東京ロマンチカが歌ったというのは、まあ、単なる偶然でしょうけれど(笑)。