その姿かたちにこそ特徴のある五稜郭。これの全貌を見渡すには高みの見物に及ぶしかないわけで、五稜郭タワーに登るに限ると。もちろん両側を海に挟まれた狭い回廊のような函館の真ん中にあって、どちらの海にも目配りできるからこそ五稜郭はこの立地なのでしょうし、そうした場所に幕末では考えられなかった高層建築として現れたのが五稜郭タワーですので、函館をぐるり360°、見渡すことができることにもなりますな。ちなみに函館山を望む方角はこのように。
その山容から別名「臥牛山」と呼ばれることがよく分かりますけれど、まあ、相変わらず天候不順は続いておりましたよ。と、天気の愚痴はともかくも、この展望室には五稜郭に関わる展示解説がいろいろとありましたですよ。
ペリー来航の結果として安政元年(1854年)に日米和親条約が締結されますと、開港場のひとつとなった箱館(当時)には徳川幕府直々に箱館奉行が置かれるのですね。それ以前にも蝦夷地に対しては、幕府直轄としたり、松前藩に任せてみたりと紆余曲折はあるようですが、開港場として外国人との関わりにが日常ともなることが想定されて、幕府としても改めて直接統治の役所を設けたのでありましょう。展示解説にはこのように紹介されておりました。
徳川幕府が箱館と蝦夷地を治めるために任命した箱館奉行は、開拓や産業の育成を目指すと同時に、箱館の防衛強化も計画しました。蘭学者の武田斐三郎が、ヨーロッパの「城郭都市」をモデルに考案した新しい要塞の設計図を奉行に説明しています。
「…説明しています。」というようすは人形でもって再現されておりますけれど、ここに名前が出てくるのが蘭学者・武田斐三郎(たけだあやさぶろう)でして、オランダとの交易はさまざな西洋の書物をもたらして、医学の分野では『ターヘル・アナトミア』を翻訳して『解体新書』が生まれることにもなりますですね。同様に兵法関係書も築城術の本も当然に大いなる興味を持って迎えられたことでしょう。何せ武家政権なのですし。
具体的にどの本ということは不詳としても、ヨーロッパではこの手の城郭が数多く造られていて、しばらく前にスイス国境にも近い南西ドイツのフライブルクからライン河を越えてフランス側のコルマールを訪ねる途中、バスで行き過ぎたヌフ=ブリザックという町は、五稜郭をもそっと大きくした星型城塞の中にすっぽりひとつの町が形成されているという具合。「ヴォーバンの防衛施設群」のひとつとして世界遺産登録されているだけに、本場ものは違うなとも思うところながら、もしかすると武田斐三郎、ヴォーバンの著作(のオランダ語訳)にでも接していたかもですなあ。
というところで、五稜郭の跡地たる五稜郭公園そのものにも足を踏み入れておくとしましょう。タワー最寄りの入口は亀の子型のしっぽにあたる突起部分になりますですね。
天候が天候だけにそそくさと中央にある広場までを往復してきただけにとどまりましたが、かつてはそこに箱館奉行所が建てられてあったということで、遺構が示されておりまして、隣には再現された建物が資料館になっていたものの、こたびは立ち寄らず…。
ま、いずれにせよ、実際に足を踏み入れてみても、やっぱり形が要だようなあと。石垣や堀を見るのもそれないに興趣はあるも、見下ろした全体像には及ばんなあ…とは極めて個人的な印象です。
それはともかく、箱館市街、いずれの方角にも見通しがきいた五稜郭、逆に新政府軍から十字砲火を浴びてしまうことになるのですなあ。こういってはなんですが(武田斐三郎が悪いわけでもなんでもありませんが)、どうも星型要塞を使いこなす点でヨーロッパには使いこなす歴史があったのでしょうけれど、形を真似ても今一つ戦闘に活かせるようにはなっていなかったのかも。そんなふうにも想像したりするのでありましたよ。