シリーズものの新刊が次々出てくるは当然のことなわけですけれど、それが毎度、近隣図書館の新着図書コーナーに並ぶことになり、おのずと目に付いてしまうのですな。これまで『足利氏と新田氏』『北条氏と三浦氏』『鎌倉公方と関東管領』と読んできた「対決の東国史」のシリーズ、どれも同じように興味深かったというわけでも、またとっつきやすかったわけでもないのですが、今度は『山内上杉氏と扇谷上杉氏』、また手にとってしまったのでありました。

 

 

鎌倉幕府が倒されて南北朝の対立となり、やがてその分裂が解消される中、足利幕府の政権は京都・室町にあるわけですな、明との間で勘合貿易が行われ、北山文化、東山文化が花開き、後には応仁の乱が起こって戦国の世へと突入する室町時代は、基本的に京都を中心とした歴史が語られて、「日本史」の教科書でもそうしたなぞり方をしていたような。ですので、その頃に関東では?というあたり、今現在の教科書がどんな内容なのかは知るところではないものの、かつてはとんとお留守になっていたような気がします(と、個人的な記憶の問題かもしれませんが)。

 

ですので、京都で応仁の乱(1467年~1477年)が起こる以前から、関東はかなりぐじゃぐじゃの状態になっていた…とは、比較的最近になって得た知識でありますよ。ひとつ前の『鎌倉公方と関東管領』でも見てきたように、室町将軍と鎌倉公方も決してうまくいっていない、そして鎌倉公方(後に古河公方)とそれを補佐する立場の関東管領もまたうまくいっていない。さらには、本書で扱われている関東管領・上杉氏の同族内もまた千々に乱れて…となってきますと、昨日の友は今日の敵といった構図が目まぐるしく移り変わって、「わかりにくいなあ」感をいや増す状況にあったように思われるところです。

 

戦国期を経て江戸幕府下においても生き残っていく上杉氏ですけれど、歴史上に浮上してくるのは室町時代に鎌倉公方が置かれて関東管領を任されるようになってからですかね。その上杉氏はかなり子孫の広がりがあって、あちこちに分家ができたりするのでして、本書のタイトルに山内上杉(やまのうちうえすぎ)、扇谷上杉(おおぎがやつうえすぎ)とあるのもそうしたことから来るわけですな。

 

一応、山内上杉が本家筋となりましょうか。同族なだけに常に互いに争っていたというわけではないにせよ、本家・分家ともに盛衰があって、上杉全体としては養子のやりとりなどで存続が図られていきますけれど、家ごとの浮沈はことごとにあるわけですね。それが、鎌倉公方(古河公方)などの思惑とも絡み合って、さまざまに合従連衡があり、わかりにくさ百倍とは先にも触れたとおりです。ひとつには、室町時代の関東で最もその名の知られた太田道灌は扇谷上杉家の家宰(後の時代ならば家老でしょうかね)だったのですが、自らの主筋の枠に収まらない目立った活動をしたからか、主君に謀殺される憂き目を見ることになるあたり、ぐじゃぐじゃ感に通じるところかとも。

 

戦乱を時系列に見ても、上杉禅秀の乱、永享の乱、結城合戦、江の島合戦、享徳の乱、長尾景春の乱、長享の乱…と、15世紀から16世紀にかけての100年ほどの間に戦乱続き。それぞれ小康を得ても長い長い争いの小休止みたいなもので、またどこかで戦いが再燃するようなことばかり。室町幕府としても、何とかおさめにゃならんと思いつつも、関東のことは鎌倉公方に任せているということもあり、反面任せておけんと口出しすれば余計に状況は悪化したりも。

 

そんなこんなの結果的かもしれませんけれど、戦国初期の梟雄として知られる伊勢宗瑞(後の呼ばれ方は北条早雲)ばかりが得をすることになったもかもしれませんですね。本書にもこんなふうにありましたし。

この両上杉抗争のなか、漁夫の利で最大利益を得たのが伊勢宗瑞である。…宗瑞に支配領域拡大への意欲がどれほどあったかは知るよしもないが、少なくとも宗瑞が関東へ進出した契機は両上杉の抗争であったのは間違いない。抗争がなければ、宗瑞はわざわざ伊豆から箱根を越えて兵を出すよりも、西へ拡大する今川氏の有力一門として遠江・三河方面でのみ戦っていた可能性が高かったろう。両上杉の戦いは、戦国大名北条氏をもたらした最大要因であった。

歴史に「もし…」は無いわけですが、ここにあるように宗瑞が西に目を向けていたならば、今川と共に東海道を押さえて盤石を築いていたのかも。そうなると果たして、その後に信長・秀吉・家康の出番があったのかどうか?とも考えてしまいますなあ。もっともそれ以前に関東にあまり抗争が無かったならば、堀越公方が送りこまれてこれを宗瑞が討ち果たす場面も無かったとも考えられるわけで、されば小田原北条氏そのものが無かったことにもなろうかと。歴史に「もし」を持ち込みたくなるのは、そんなこんなの想像ができてしまうからもでありましょうね。

 

ところで、上杉氏は後々江戸時代にも大名として残ったとは言いましたですが、山内上杉氏には越後に拠った分家がありまして、これを家宰として支えていたのが長尾氏ですけれど、越後の長尾に上杉の名跡を継がせて登場するのが、長尾景虎、つまりは上杉謙信なのですなあ。謙信は越後にあってやたらに関東を気に掛け、西へ、京へなかなか向かわない。跡を継いだ上杉氏が関東管領としての名門であったとの強い意識をも受け継いでいたからなのでありましょうなあ。

 

余談ながら、本書の中にあった記載を少々引用しておこうかと。歴史研究はどんどんと進んで、昔に教科書を通じて習ったことがひっくり返されることがままありところながら、これもまたそんなようなことかなと思ったものですから。

軍記『鎌倉大草紙』や『永享記』に、長禄元年(一四五七)に…太田道灌が江戸城を築いたとあったため、かつてはこの認識で考えられていた。しかし、実際には異なっていて、現在では江戸城築城に道灌が大きく関与したのは間違いないものの、享徳の乱中における上杉氏方の拠点構築として、扇谷上杉氏重臣たちの協力のもとで数年かけて構築した(『松陰私語』)と判明している。

へえ、そうだったんだあ…。