実に久しぶりに吉祥寺に行ってきました。いやあ、人が多いこと、多いこと。驚くべしです。よほど駅から出ずに、そのまま帰ろうかと思ったくらいでありますよ(笑)。

 

とまあ、そんな吉祥寺で立ち寄ったのは武蔵野市立吉祥寺美術館でして、「野田九浦-〈自然〉なること」展が開催中であったものですから。

といっても、野田九浦なる日本画家の名前はついぞ知らないでいたところながら、先ごろ立川で邨田丹陵展を見たときに、その弟子筋にあたる画家たちの中に九浦の名前があったもので、少々記憶に残っていた次第。どうやら丹陵と親しかった寺崎廣業の弟子だったようですなあ。

 

古来の伝統に基づく武者絵や歴史画を描くところなどは丹陵とも近さを感じさせますけれど、タッチはもそっと繊細かもしれません。ロビーに展示されて、これだけは撮影可とされていた「相撲」という一枚を見ましても、力強さや迫真性は伝わるものの、細やかさが感じられるような。

 

 

右上に(光ってしまってよく見えませんが)さりげなく?立葵の花が描き込まれているあたりもまた、画家の個性なのでしょうなあ。

 

ところで、九浦は画家であるわけですが、正岡子規の影響を強く受けているのだそうですね。元々、俳句をたしなんだところからの縁だそうですけど、解説に曰く「子規の自然主義芸術論に触れたことが画業の大きな転機になった」と本人が語るほどに、その影響は俳句をひねる部分には留まらなかったようです。

 

上のフライヤーには、九浦には珍しく、歴史的な背景の無い人物画を描いたものが取り上げられておりしまして、タイトルは「獺祭書屋」。正岡子規は「獺祭書屋主人」という号も使っていたことから、まさに病床にある子規を描いたものであったのですな。九浦の心酔度合が窺えようというものです。

 

ちなみに「獺祭」と聞いて思い出すのは専ら日本酒だったりしますけれど、蔵元のある地域に伝わる獺(かわうそ)にまつわる伝承とともに、子規がこの号を用いたことも銘柄の命名に関わっているようでありますよ。全くの余談ながら。

 

と、話を九浦に戻しまして、その画風の特徴のひとつには「線」へのこだわりがあったということでありますね。展示解説にはこんなふうにありました。

九浦が学んでいたころの日本美術院では〈朦朧(もうろう)体〉による表現が追究されていましたが、九浦はあくまで日本画表現としての線にこだわり、描線を埋没させることはしませんでした。

「日本画表現としての線」、これは19世紀末に西洋でジャポニスムが起こった際に、彼の地の画家たちに衝撃的な影響を与えたやに思うところですけれど、絵を描くという点において洋の東西で何故にこれほどの違いがあったのかいね?ということを考えてしまったり。

 

ひとつに筆を使うことにありましょうかね。絵を描くときに筆を使うこと自体、東洋も西洋も同じとは思うところながら、中国や日本では筆は文字を書くにも使うわけで、絵を描くよりも先にこれがあったという点は見逃せないような。

 

もちろん、西洋でも文字は書きますけれど、筆記具としては筆というよりもペンの類、先が尖っていてくっきりと線だけを書けるものがもっぱらだったのではと。ですから、文字を書くことと絵を描く(塗る要素がある)ことでは使う筆記具が分かれていたものと想像するわけです。

 

一方、中国や日本で使う筆は細い線も太い線も書けますし、たっぷり墨を含ませて塗りに使うこともできるわけです。このある種、使いでのある筆記具でもって文字を書くことと絵を描くことの間に極端な差異を感じてこなかったところに、西洋との大きな違いがあるのではなかろうかと推測したりしたのでありますよ。

 

ま、素人の思い付きでありまして、しかもまたすっかり野田九浦の話からは脇へ逸れていってしまいましたが、そんな思い巡らしもまた展覧会場での楽しみなのではありませんでしょうか。