「日本古来のやまと絵を継承した画家」との触れ込みを見かけて、先ごろには「ふつうの系譜」展@府中市美術館で土佐派の大和絵の一端にも触れていたものですから、つい釣られて出かけてしまいましたなあ。生誕150周年として開催されている邨田丹陵展@たましんRISURUホール展示室(要するに立川市民会館ですが)でありますよ。
邨田丹陵という画家の名前は初めて見かけた(といって、日本画家のことはおよそ知らないことだらけ)ですが、明治5年に旧田安家に仕えた幕臣の家に生まれたのだとか。明治初年の幕臣の家というのも多難であったろうとは想像しますけれど、まあ、当の本人はおそらく絵を描くのが好きだったのでしょうなあ。食っていくための商売に絵師を選ぶとも思えませんし。なにしろ、御用絵師という存在もなくなってしまった時世でしたでしょうから。
大和絵師・川辺御楯に学んで自らも…という具合であったようですけれど、考えてみれば大和絵の伝統がよく残っていたものだなあとも。幕府の側はもっぱらに狩野派びいきであったろうと思いますしね。
ともあれ、やがて頭角を現した丹陵は明治期の日本画壇で名を知られるようになるわけですが、このところ樹木伐採の話題が喧しく取り上げられている神宮外苑にある聖徳記念絵画館に作品が収められているということで業績を偲ぶこともできようかと。しかも、絵画館展示の80点の中で、後世の人の目にとりわけよく触れてきた作品であろうと思うわけでして。
タイトルは「大政奉還図」、ネット検索すればたくさんの画像がヒットして、おそらくは歴史の教科書などに載っていたこともあるような。それで見覚えのある方が多いのではないでしょうか。
と、このように明治画壇で一廉の画家であった丹陵ですけれど、あるときふいと遁世してしまったようで。さる絵画展で三等となったことをきっかけに、さまざまな説が取り沙汰されたようですけれど、丹陵自身は多くを語らず。ひたすらに自分で納得のいく絵を描きたかったということでもあるようです。関東大震災の罹災で都心の住まいを離れ、立川市に移り住んだことが今回の回顧展にもつながったところながら、この都落ち?が丹陵を埋もれさせた原因でもあろうかと思うところです。
さりながら、画家としての評価が必ずしも凋落一途といったわけでもないようなのですなあ。先の「大政奉還図」の奉納者(依頼主ということにもなりましょうか)は徳川最後の将軍・慶喜の孫にあたる公爵徳川慶光であったのですが、その公爵の妹さんの手習いのひとつが丹陵を師として絵を学ぶことであったとか。お二人の父親は即ち慶喜の息子なわけですから、娘の絵の教師を選ぶにあたっては選び放題であったでしょうに、それが丹陵に白羽の矢が立ったのですからねえ。この妹さんが書いた『徳川おてんば姫』という自叙伝には師・丹陵の絵の手ほどきの思い出なども描かれているのですな。展覧会場にはこの本の該当ページも展示されておりましたよ。
と、すっかり丹陵の絵のことをよそに長々となってしまっておりますが、展示された作品を見る限り、なるほど大和絵の伝統と思われる細かく丁寧な描写であろうかと。そして、丹陵と誼を通じた画家の寺崎廣業(丹陵とは違い、画壇の重鎮になっていった人)との共作連作なども展示され、こちらを見るとどうも丹陵の方が味わい深いようにも思ってしまうのは(都落ちした丹陵への)判官贔屓かもしれませんけれど。
ところで改めて目にした大和絵の伝統、明治以降にあっては(ちと適当ではないかもですが)子供向けの絵本の挿絵に活かされていったのかもと。近頃はずいぶん傾向が変わったとは思うも、ひと頃まではいかにもな武者絵ふうの人物たちが描かれたお話本があったりしましたですよねえ。余談ながら、そんなことも思い巡らすことになった展覧会でありましたよ。