この秋、東京・新宿に夏目漱石 の記念館がオープンするとは先に触れましたけれど、
うっかりしていたのは2017年が漱石の生誕150年だということ。
それに合わせていたのですなあ。
で、漱石が生誕150年ということは、同年生まれの正岡子規もまた生誕150年。
「なぜ、今?」と思った子規の半生をたどる芝居が上演されたというのも
アニバーサリーだったからなわけですね。
というわけで、文学座公演「食いしん坊万歳! 正岡子規青春狂想曲」を
紀伊国屋サザンシアターで見てきた…とまあ、そういうお話でございます。
しかしまあ、この芝居、子規の生涯を追ってよく出来てると思うのですが、
いかんせん、タイトルで失敗してたりしませんですかね…。
なるほど主人公「のぼさん」こと正岡子規は食いしん坊であったらしく、
話の中でもそこここにその片鱗を窺わせる場面が登場しますけれど、
子規=食いしん坊が結びつかない場合には「きっとコメディーであろう」と思ってしまうような。
もちろん芝居の中にはくすぐりもまま出てはきますけれど、
35年という短い生涯を駆け抜けた正岡子規の「炎の人」ぶりを描いているだけに
タイトルがミスリードするような気がしたものでありますよ。
とまれ、ご存知のように結核、そして脊椎カリエスを病んで
自ら「病牀六尺」と呼んだ狭い世界に押し込められてしまった子規の姿は
例えば松山で訪ねた子規記念博物館 などで年譜をなぞるだけでは
思い至らない凄絶さで迫ってくるのでありますよ。
この点、映画にしたらばさらにリアルな映像で見せることができるのでしょうけれど、
個人的には「まんまを見せる」インパクトよりも、芝居という限られた再現の中で見る者に
想像させることを良しと思いたいですね。
それはともかく、先に「炎の人」と言いましたけれど、
「炎の人」とは画家ゴッホの代名詞のようになっているわけで、
意図的にゴッホに擬えたともいえるのでして。
やはり37歳という短い生涯だったゴッホは若い頃(亡くなる年齢も十分若いですが)
「自分は本当に何をしたいのか」という点で軸足の定まらなさがありますけれど、
これは子規も同じ。
そして、いったん思い定めた後にはその理想に向けて相当に前のめりで進んでいく。
周囲は振り回され、衝突を生むことも度々…と、そういうあれこれを思ったときに
ついつい子規にゴッホの姿を重ねてしまったということでありますよ。
ただ、ゴッホと子規の決定的な違いは人脈ですね。
松山時代からずっと子規を頼っていた高浜虚子や河東碧梧桐、
その他にも漱石や伊藤左千夫、中村不折など、それぞれの分野の違いはあるにせよ、
ときには子規の傲然たる態度に辟易しながらも仲間としてあった人たちがいたわけで。
と、中村不折で思い出しましたですが、
芝居の中で子規が不折に「写生とはどのようなものか」と問う場面があって、
そこでのやりとりから子規の「写生文」の発想が出てくるあたりは、
展開としても妙味がありますですね…って、興味があるかでしょうけれど。
ということで、タイトルからの思い込みとは異なって、
子規の奮闘に刺激され、また涙も浮かぶひととき。
いい芝居でありましたことよ。