東京・福生の熊川神社。その鳥居の左側には「杜の美術館」(休館中)があるといいましたですが、右側の境内敷地沿いには疏水が流れていたのですな。こんなふうです。

 

 

解説板によりますと、これは「熊川分水」というもので、分水というだけにお隣、羽村市の取水堰から取り込まれた玉川上水から分水して得た流れということでありました。ただ、玉川上水の完成は承応三年(1654年)で、すでにして分水工事の願い出が寛政三年(1791年)に出されるも、熊川分水ができたのは明治23年(1890年)とは100年越しの悲願の疏水ということになるようで。

分水の水は、まず各家庭の飲用水・生活用水に、そして水田に引く灌がい用水に、また酒造、製糸業などの工業用水にも使われました。

先に(福生市郷土資料室の展示から)触れた片倉製糸なども大いにこの水の恩恵を受けたのでありましょうかね。ということで、水量は1日に約1,000トンという水流は延々と続いているわけですが、これができるまで、福生は多摩川の河岸段丘の上にある土地なだけに、水の確保は一大事でもあったことでしょう。

 

 

それを偲ぶ史跡として、熊川神社から疏水の流れを遡ることしばし、住宅街の中に忽然と現れるのが、こちらの「伝 地頭井戸」と呼ばれるものであるようです。

 

この井戸は「地頭井戸」と呼ばれ、江戸時代に徳川幕府の旗本(地頭)で熊川鍋ヶ谷戸地区を知行した長塩氏が、水不足に悩む領民のために井戸を掘り与えたとの伝承を持ち、昭和三十年代まで地域の共同井戸として使われていました。「地頭井戸」の伝承を持つ井戸は熊川地区に四ヶ所ありましたが、現在までに遺されたものは本井戸のみです。

ちなみに旗本の長塩氏とは、甲斐武田家の遺臣であるそうな。天正十年(1582年)の武田滅亡にあたり、徳川に召し抱えられることとなった長塩氏ですけれど、江戸にとっては西の入り口にもあたる多摩のあたりは、甲州と隣り合っていることもあってか、旧武田の家臣が置かれたのですなあ。八王子に置かれた千人同心もまた武田の遺臣だったりするようですし。

 

と、その伝地頭井戸からもう少々住宅街の中を進んでいきますと、長塩氏の菩提寺に行き当たるのですね。「室町時代の応永18年(1411)に創建されたと伝えられる」玉應山福生院、臨済宗建長寺派のお寺さんです。

 

 

でもって、こちらの五輪塔が長塩氏の墓所ということで。井戸の御恩は末代までも…でしょうか、今でも御花が供えてありましたですよ。

 

 

ところで、この福生院の裏手にある墓所がどうやら河岸段丘の際にあたるようですね。裏口にあたるようなところは、これだけの段差になっておりまして、高台なればこその水事情があったことを偲ばせるのでありましたよ。