NHK正月時代劇「家康、江戸を建てる」で実に憎々しい役回りであった大久保長安なる人物。
それが八王子にとって町が作られた歴史を振り返る中では欠かせない存在であったとは

八王子市郷土資料館の展示 でも教えられたところですけれど、資料館の近くを歩き廻って

歴史の名残に触れてみるかいねと考えた次第でありまして。


まずもって、資料館から西に向かって小学校の手前を右に折れ、

そのままJR中央線の踏切を渡り越したすぐ先にありましたのがこちら、

「大久保石見守長安陣屋跡」でありました。確かに長安、八王子にいたのですなあ。


大久保石見守長安陣屋跡@八王子市

今は産千代稲荷神社というお社の片隅にあるわけですが、もともとは

「代官大久保石見守長安の陣屋内の鬼門除の守護神として創立された」(東京都神社庁HP)と

いうことですので、陣屋が先なはずながら「軒を貸して母屋を取られる」てな感じに

なってしまっているような。ま、ここを拠点に長安は積極的な活動を行ったのですな。


とりあえずこの後は甲州街道に出てみることに。

今では車通りの多い道としか思うこともない甲州街道ですが、

沿道には時折古風な構えの商家があったりしますね。


こんにゃく製造卸 なかのや

明治14年創業のこんにゃく屋さんだそうですが、あいにくとこの日は休業でした。
開いていれば、中でこんにゃくスイーツを食することもできたようですが。


と、そんな甲州街道を西へ甲府方面にしばし進みますと、追分に行き当たります。
要するに分かれ道ですな。


江戸時代の道標@八王子追分

なんでも文化八年(1811年)に建てられたという古い道標が近くにぽつんと。
片面に「左 甲州道中高尾山道」(つまりは甲州街道)とあり、
もう片面には「右あんげ道」(案下道、要するに陣馬街道)と書かれてありました。


現在の八王子追分交差点

今の追分交差点はかようことになっておりますが、
陣馬街道側に少し進むともうひとつ分かれ道がありまして、
本当はこの左側の道が陣馬街道の旧道だったのかなと思ったりもしましたですよ。



とまれ、そのような小さな分岐点のところにこれまたひとつ石碑が。
「八王子千人同心屋敷跡記念碑」というものです。


八王子千人同心屋敷跡記念碑

今の区画ではこの碑のちょいと先からが「千人町」にあたるのですけれど、
この辺からすでに千人同心の住まいがあったのですなあ。


で、これはちょいと勘違いになりますが、「千人町」は文字通り千人同心の町ではあるも、
一千所帯が集住していたわけではないようですね。


千人同心の組織は「1人の千人頭に10人の組頭と90人の平同心が属する」形であったとか。
で、実際に千人町に住んでいたのは千人頭の10人と他の同心では100人ほどであって、
それ以外は付近の村々に住んでいたのだそうな。元より半農半士の武士集団とのことで。


八王子千人同心組頭の家@江戸東京たてもの園


ちなみにこちらは江戸東京たてもの園 に移築保存されている「八王子千人同心組頭の家」。
これを見ると「なるほど、半農半士を彷彿させる佇まいであるな」と思い、
この家は元々どこにあったものか…と思えば、八王子市追分町に建っていたものであると。


建築年代としては江戸時代後期とのことですが、
当時の八王子のようす、推して知るべしではありませんでしょうか。


さて、甲州街道を進んで千人町に入り、表通りから一本裏に回り込むと
興岳寺なるお寺さんがあり、千人頭のひとりであった石坂弥次右衛門の菩提寺だそうで。


興岳寺@八王子市千人町

千人同心の大きな仕事として、
日光勤番(順番に日光へ出向いて東照宮の守護にあたる)がありまして、
幕末の慶応四年(1868年)、江戸幕府の象徴たる場所でもある日光に
新政府軍が迫り来る中で警護に当たっていたのが石坂弥次右衛門らであったそうな。



解説板に曰く「幕軍の大鳥圭介等に謀り、交戦せずに日光を明け渡し帰還した」ところ、
八王子の攘夷派の突き上げをくらい、石坂は自刃して果てるのですが、
後年になってからは日光東照宮を戦火にさらさずに済ませたことを功績とも見られるようで。
境内には大きな「顕彰碑」が建てられてありました。


石坂弥次右衛門義礼 顕彰碑@興岳寺

さらに甲州街道を進めば、ほどなくJR中央線の西八王子駅に到達しようかというあたり。
千人同心おひざ元だけに道端でもかようなものが目に留まるのですよね。



八王子あたりの甲州街道沿いは、
これまでに何度もバスの中から眺めたりすることのあった場所ではありますが、
いざ歩いてみれば「ほお~」というものに出くわしたりするのでありましたよ。