ちょいと前に八王子市郷土資料館を訪ねてみましたのは
椚田遺跡の縄文土器
を見てみようということからでしたですが、
ついでに通りすがった常設展示の中にかような説明文を発見したのですね。
江戸時代の八王子は江戸幕府が開かれた後、大久保長安の指揮のもとに八王子城下から移住した人々を中心として横山、八日市、八幡宿がつくられたことに始まります。
この説明文のどこに食いついたのか?ですけれど、
「大久保長安の指揮のもと」という部分なのでありますよ。
元より大久保長安という人物を知っていたわけではないながら、
つい先頃、2019年1月2日に強く印象付けられた人物の名前であったものですから。
しかし2019年1月2日とはまた妙に具体的な日付ですけれど、
正月休みに両親のところで見ていたNHKの正月時代劇「家康、江戸を建てる」に
高嶋政伸が演じて「実に実に嫌な奴」たる大久保長安が出て来たのが、ひどく印象的でして。
(原作小説
を読んだときにはさほどの印象ではないので、ドラマ用の脚色があったのかもですが)
それだけに、そんな人物が八王子の町づくりに大きな関わりを持っていたということが
大いに気になったわけでありまして、八王子市郷土資料館で5年ほど前に開催された企画展、
「大久保長安と八王子」の図録が販売されていたものですから、
ついつい購入、読んでみたのでありました。
徳川の天下になって大久保何某という名前はよく聞くところですけれど、
初代小田原藩主となった大久保忠隣の配下となったときに、その働きぶりを認められて
大久保姓の名乗りを許されたのだとか。
元々は武士ではなくして猿楽師の家系であったそうですが、
甲斐に渡って父が武田信玄のお抱えとなった後に、長安自身は家臣に取り立てられて
武士の道を歩むようになるのですな。
武田家滅亡後には多くの家臣が家康に召し抱えられますが、長安もそのひとり。
治水、検地、鉱山開発などに大きな力を発揮したようで、取り分け鉱山開発では
石見奉行、佐渡奉行、伊豆奉行と金銀山の関わる土地の奉行職を歴任。
それも長安ゆくところでは産出量がそれまでに比べて激増するのですから。
もちろん採掘法に工夫を凝らすなど努力の賜物でもあるわけですが、
こうした結果を伴う仕事ぶりは長安を出世に導く反面、風当たりも強くなったことでしょう。
決定的な場面は亡くなった直後のこと、
やおら家康から「葬儀を執り行うこと、まかりならん」てなお達しが出たほか、
子供たちは切腹させられ、結果、長安の一族は断絶するにことになってしまうのですなあ。
生前の長安はずいぶんと豪奢な生活ぶりであったようで、
その金の出どころは金銀山の奉行職などを通じて私腹を肥やしたのに違いないと見られ、
断罪されたということであるようす。
こうしたあたりの人物像が先のドラマにも反映しているのではと思うところですが、
長安生前最後の手紙というのが残されておりまして、藤堂高虎に宛てたこの手紙には
長安が関わった鉱山などの収支で不正を働いたことはないと訴えているそうな。
まあ、疑惑というか、やっかみというか、いろいろない交ぜになったものが
幕政に関わる者たちの間で渦巻いていたことを長安も十分に察知して、
せめてもと「藤堂さん、あんたは分かってね」と認めたものかもしれませんですね。
一族根絶やしという最期が悲壮なだけに、憐れさも感じたりするところですが、
事実は歴史の闇の中にあって、はっきりとはしていないようで。
とまあ、そんな大久保長安と八王子との関わり、
先ほどの説明は宿場を作ったというだけでしたけれど、
実際に長安自身も八王子に陣屋を置いて、南関東西部一帯の代官職を務めていたそうな。
そも豊臣秀吉の小田原攻めにあたり、北条氏照が守っていた八王子城も落城、
関東に移ってきた徳川家康は周辺の治安維持を目して、
八王子に甲州武田氏の旧臣であった小人組の武士500人を配置します。
また、八王子は甲州街道を通じて江戸への入口であるところから警護の必要性があり、
後にこの小人組を拡張・再編成して1000人の武士団を置くことにしますが、
これが(知っている人は知っている)八王子の「千人同心」でありますね。
そこに千人同心の頭たちを、今でも町名が残っている「千人町」という町を設けて
住まわせたのも大久保長安なのだそうでありますよ。
長安と八王子とはかような関わりがあるわけですけれど、
郷土資料館からほど遠からぬところにかつての大久保長安陣屋跡があるてなことを
聞き及んだものですから、立ち寄ることに。そして、そのついでには
千人町の方まで足を伸ばしてみた…ということになっていくのですが、
そのあたりはこの次ということで。