さてと、JR南武線&京王線の分倍河原駅から始めたぶらぶら歩きでは、当日の万歩計(携帯電話の付属機能ながら、使用状況としては単なる万歩計と化しております)によれば「14,461歩」という記録が残っておりますが、実のところそのほとんどが「下河原緑道」の道筋をたどっていたのでありますよ。府中観光協会HPによりますと、下河原緑道はこのように紹介されております。

昭和51年9月に廃線となった旧国鉄下河原線の跡地を利用して、甲州街道ぞいにある下河原線広場公園より南へと、自転車・歩行者専用道として整備したものです。…多摩丘陵を臨み、田園風景の中を南北にまっすぐ走るこの道は、四季折々の花や木を楽しむことができます。途中東西に続く新田川緑道と交差して、郷土の森博物館手前で西に折れ、南町にある八幡神社まで続いています。

全長約7kmを歩き通したわけではありませんけれど(それ自体が目的ではありませんでしたので)、分倍河原古戦場跡から多摩川の方向に南下して、中河原駅近くで京王線の高架を潜り抜けたしばし先で、今回は緑道に合流したのでありました。

 

 

いかにも河川にふたをした暗渠であるか、廃線跡かという雰囲気ですけれど、ここは先の紹介文にもありましたとおり、旧国鉄下河原線の跡地。つまりは廃線跡というわけです。背後方向に進めば京王線の中河原駅に行き当たりますが、その手前あたりにかつては下河原駅という貨物駅があったのそうです。多摩川に近い貨物駅とは、下河原線の元々は明治43年(1910年)に開通したという東京砂利鉄道ですので、多摩川の砂利を運び出すために作られたのですな。貨物駅というのもなるほどです。

 

確か、多摩川の対岸を走るJR南武線も元は多摩川砂利鉄道というのでしたな。こちらは大正8年(1919年)開通でちと遅いですが、明治末から大正へと移り変わる時期、東京では鉄筋コンクリート造の建物が次々建てられ、そのための建築資材として多摩川の砂利は大量に輸送されていたことでありましょう。

 

緑道(廃線跡)はしばらく直線で多摩川とほぼ並行して東南方向に続いていますけれど、これが府中市郷土の森(中に博物館がありますが、常設展示室が改装中のようでしたので、今回は立ち寄らず)にぶつかるあたりで大きく北へとカーブを切るのですなあ。府中地殻活動観測施設はこのあたりにある…というのはともかくも、ここからはまたひたすらにまっすぐに続く下河原緑道です。

 

 

正面に見えている高架が中央自動車道でして、右側にはたくさんのビア樽(といっても金属製ですが)、サントリービールの武蔵野工場になっております。で、右手奥(といって、写真には写っていませんけれど)府中の東京競馬場ですので、高速の上、右から左(東京方面から八王子方面)へ向かって走っておれば、♪右に見える競馬場、左はビール工場~となりまして、ユーミンの「中央フリーウェイ」の歌詞に相当するあたりということになるのでありまして(だからどうだ、ということもありません…)。

 

 

ところで、旧国鉄の下河原線はもっぱら貨物線であったかのようにしか触れておりませんでしたが、実は部分的に旅客線でもあったようですなあ。多摩川の砂利はこのまま北上して国分寺駅へと出ますが、旅客線としては国分寺駅から競馬場を結んでいたようで。中央道をくぐってほどなく、上の分岐点(北から南方向を振り返って撮影)がありまして、どちらもが下河原緑道と呼ばれているようでありますよ。

 

 

ま、今では東京競馬場の玄関口としては、京王線東府中駅から支線として競馬場線が伸び、府中競馬正門前という駅がありますし、JRの方ではそれほど近くはないものの武蔵野線・南武線の府中本町駅がありますので、とうに多摩川の砂利採取は終了しており、昭和51年(1976年)に下河原線は廃止となるのですなあ。個人的には、さほど昔のこととは思われません(笑)。

 

 

ともあれ、下河原緑道はほどなく登り坂となって、多摩川の段丘上へと続いていきます。この先で、道の下を南武線が通り抜けているのですけれど、その南武線沿いに崖脇の道があり、それがちょいと前に映画『ちはやふる』のロケ地のひとつとして触れました「おんぶ坂」になっておりますよ。そんなこんなで、散歩の終着点となる府中本町駅へと到着したのでありました。