だいぶお日柄もよろしくなってまいりましたですなあ。うららかな日差しに誘われて(?)JR中央線・国立駅から南にまっすぐ続く大学通り(途中、道の左右に一橋大学のキャンパスがあるもので)を散歩してきたのでありますよ。
これはかなり南側に下ったところにある歩道橋から駅方向を眺めたものですけれど、三角屋根の旧駅舎に向かって車道とその両脇に自転車用道路、緑地帯、そして歩道が設えられている大学通り。計画都市ならでは造りでありますなあ。
その大学通りのほんの一部ですが、「芸術の散歩道」と名付けられたところがあるのですね。しばらく前に同じ国立市内のさくら通りを歩いて、沿道に置かれた「くにたちアートビエンナーレ」の入賞作品(野外彫刻ですな)を見て回りましたですが、さくら通りにあるのは2018年度開催時の作品でして、大学通りにあるのは2015年度の作品だそうです(ビエンナーレながら2015年の次が2018年?ということは、以前にも触れましたっけ)。
ともあれ、長く続く大学通りの中ほどに6点(道の左右ですので、片側に3点ずつ)の作品が緑地帯の中に点在するということで、駅を背にまずは西側の歩道を歩いて「どこかな?」と。まず最初に出くわすのはこちら、『風の球体』(優秀賞)というタイトルでありました。
球体部分はよく見ると地球儀であることが分かります。作者は「日々の生活の中で地球を意識してもらうことが願い」として、作品がひとどおりのある屋外に置かれることを意識して創造したものでありましょう。
続いて現れたのは『重くて、脆くて、とても厄介なもの』という作品、2015年度の大賞受賞作です…が、「これ?」という印象も。近くのタイトル表示板には作者のコメントが紹介されておりましたよ。
石の性質を際立たせただけのこの作品を街中に置くことで、「モノ」そのものにではなく、それが“在る”という「モノ」の存在自体に興味を持つ人が一人でもいたとすれば、面白いと思うのです。
ビエンナーレというイベントの当時はともかく、何年かが過ぎてしまいますと、いかに賞をとった作品とはいえ、道行く人が誰も作品に目を止めなくなっておりますね。わざわざ訪ね歩くような場合は別として。
ですが、いかにも石でしかないというこの作品は、道行く人が目を止めなくなったとき、その場にあることを彫刻作品としてことさらに主張することなく、周りのようすにすっかり同化しているのは、過ぎてみればなんと景観にやさしい彫刻であろうかと思ったりしたものです。実際、見たときにはただの石、ベンチとしてくらいには使われるかと思われるこの作品に、散歩に連れ出された犬がのっかっていて、居心地がいいのか、なかなか動こうとしない。飼い主さんはこちらでカメラを構えているが目に留まったか、犬を急かしてどけようとしていたのですな。
こちらとしては「犬の自由でいいですよ。急かせずに」と伝えたのですが、実は犬がのっかった状態で撮っていたら、この作品の「らしさ」といいますか、「存在意義」が分かりやい気もしていたのでありますよ。
お次はこちら、『ZERO²』という準大賞作品。最初に浮かんだ「楔」のイメージがやがて連なって、ぞろぞろ動き出すような形になっていったものであると。成長と関わりがイメージされているということです。なるほどながら、ちとぞわぞわ感があるような…。
と、3点を発見したところで、先に触れました歩道橋でもって通りの東側に移動します。ちなみに、右奥に見えているがひと頃、国立市の景観条例に高さが抵触するものとして係争のあったマンションですな。大学通りにはこれより高い建物はありませんし、この後も建てられないのでありましょう。
さて、道を折り返して最初に出くわしたのがこちら、市民賞を得たという『月出』という作品です。彫刻作品としていかにもな姿かたちは市民賞というのが納得できるところですけれど、、その後もその場に馴染むかという点で、先に大賞作品を見て思い巡らしたところと突き合わせますと、果たしてどうであるのかなあと思ってしまったりもするところですなあ。
続いては『記憶のひきだし』という優秀賞作品。小さいおうちと巨大な滑り台?というオブジェの組み合わせは、自宅近くにあった公園と遊具を思い出すことで「記憶のひきだし」ということなのでしょう。景観との溶け込み方では、子供にとっても遊具と認識されましょうし(もっとも実際にこれで遊ぶことはできませんですが)、大人にはタイトルどおりに記憶の引き出しにもなるとことであろうと。「あり」ですかね。
大学通りの屋外アートをたどって最後の6点目となるのは、これも優秀賞を得た『進化景色(都市の森)』というもの。巨大キノコにも見えてしまうところながら、樹木の多い大学通り(春は桜、秋はイチョウの黄葉)ではさほど違和感の無いところかもしれませんですね。
と、6点ばかりを見て回るのに長い話になってしまいましたですが、屋外アートを訪ね歩いたりしつつも感じていた、その場への馴染み具合といったものを、改めて考えてみる機会とはなりましたなあ。アート作品そのものとしての意義、価値とは別に置かれ方というのがとても影響するものであるなと思ったものなのでありました。