甲府の山梨中銀金融資料館を訪ねて、
まずは銀行史をたどる形になりましたですが、メイン展示と思しき「貨幣史」の展示コーナーへ。
解説は子供にも分かりやすくということでしょう、こんなあたりから始まります。
「むかしは貝がお金だった」と。
「およそ3000年前の中国では、南方海域の宝貝がお金に使われていました」というところから、
お金や経済活動に関係のある漢字には「貝」のつく字が多いと紹介されておりますよ。
これ自体はよく知られてはおりますけれど、このことに伴いまして改めて
日本最初の流通貨幣ともいわれる「和同開珎」は今では「わどうかいちん」と読む方にいささか
分があるようにも思えるところながら、かつては「わどうかいほう」と併記されていたことを思い出しますな。
なんとなれば、「かいほう」と読む場合には「珎」は「寳」の異字であろうと見るわけでして、
「貝」の字が入った「寳」は中国でもお金の名称にたくさん使われております一方で、
「かいちん」と読むときには「珎」は「珍」の異字であるとしますが、
音的に「ちん」は「賃」に通じると思えば、まあ、「貝」つながりにはなりますかねえ。
(そんな学説はありませんけれど…)
ところで、紀元前221年に中国統一を果たした秦の始皇帝は度量衡の統一も図りますけれど、
通貨単位もそのひとつでありますね。
お金の価値を量るものとして、ベースにあるのが穀物の「黍」10粒であるとは。
黍は確かに五穀豊穣を願う作物のひとつではありますけれど、そもそも稲作は南方から来たもので、
北方での栽培がこの時代に可能であったかと考えれば、むべなるかなとも。
Wikipediaの「キビ」の項には「中国の華北地方では、アワとともに古代の主要穀物であった」と
紹介されているようでもありますしね。
で、この単位は奈良時代に日本にも伝えられたということながら、
「鎌倉時代後期に…「1両=4分=16朱」に変化し」ていったそうですけれど、
この四進法を「京目」というのであるとか。十まで数えて繰り上がるよりも勘定しやすいのかとも思うものの、
すでに十進法に馴染んでしまっている現代人には反って面倒なような…。
ところで、その後室町時代が戦国の世に突入しますと、「諸大名による城下町の建設や商業振興策によって、
商工業は飛躍的に発展」、結果として「各地で金貨・銀貨の鋳造が盛んにな」ったということで。
ここで登場するのが「甲斐の武田氏がつくった甲州金」ということになるのですなあ。
それまでは金貨にしろ銀貨にしろ、一定量を切ったり割ったりして、はかりで量って使う、いわゆる秤量貨幣だったのですが、甲州金は貨幣に額面を表示した計数貨幣でした。
これが江戸期にも受け継がれたということですが、それはまた、その後のお話。
ともあれ、1両を金4匁としてはっきりと金の量(価値)による裏打ちができたのは、
甲州には比較的、金の鉱脈が豊かであったことがあるようです。
黒曜石や水晶などとともに地質的な特徴が生んだものでありましょうかね。
余談ですが(といって、展示解説にあった話の受け売りです…)、
今でもよく使われる慣用表現として「金に糸目をつけない」、「太鼓判を押す」というのがありますけれど、
これはどちらも「甲州金」が出どころ(という説もある)ということですなあ。
かつて「糸目金」というのがありまして、なんでも一両金(15g)の64分の1の重さ(約0.234g)と価値であったと。
風にも飛ばされてしまいそうな糸目金は気にも留めず、思い切ってお金を使うことを表して
「金に糸目はつけない」という表現ができたそうでありますよ(一説によれば、です)。
また、一分金には偽造防止のために和太鼓にも似た文様が細工されていたところから、
この太鼓のような文様があれば「本物に間違いなし」の意として「太鼓判を押す」となったと(諸説あります)。
と、貨幣史を極めてざっくり振り返りつつ戦国時代の甲州金まではたどり着きましたですが、
江戸期以降のようすもやっぱり記しておきたいところでありまして、それはまた次回ということで。