秩父へと向かう道すがら、かなり北へ迂回する形で寄居のあたりからようやく荒川沿いに。
ここから長瀞を経由して南下をすればほどなく秩父に到達するわけですが、
途中でもう一つだけ寄り道を。秩父鉄道の駅でいえば、和銅黒谷駅のほど近くとなりましょうかね。
すでにして駅名から想像されるところではありましょうけれど、立ち寄ったのは和銅遺跡。
かつて日本最古の通貨と考えれていた「和同開珎」を鋳造するための、銅が産出された場所ですが、
今では「富本銭」の方が古いとされているようですから、果たして学校の歴史の教科書は
どんな記述になっておりましょうかねえ。
とまれ、この石碑のあたりから、しばし歩きで山中へと分け入っていくことになるのでありますよ。
「和銅採掘露天掘跡」はこちらと示す道標から先はこんなぐあいです。
和銅を採掘したという場所は沢沿いの崖で、地層の露頭でたまたま銅が発見されたのでしょう、
ここまで山道を登ってきましたが、この先は沢に向かって下っていくのですなあ。
でもって、たどり着いたところは少々広く、平らになっていて、思いがけぬ大きさのモニュメントがありました。
巨大な「和同開珎」に「日本通貨発祥の地」と。
先に「富本銭」の方が古いようなことを書きましたですけれど、
作られた年代は「富本銭」が推定で683年(天武天皇12年)で、「和同開珎」が708年(和銅元年)ながら、
「富本銭」の方は実際に流通されたのが分かっていないそうなので、「和同開珎」をもって通貨発祥とするのは
差し当たり間違いとまでは言えないのかもしれませんです。
とまれ、近くにある解説板にも目をとおしておくことにいたしましょう。
慶雲五年(708年)今から千三百年前、ここ武蔵国秩父郡から和銅(自然銅)が発見され都へ献上されました。これを喜んだ元明天皇が年号を「和銅」と改め、罪人の罪を許したり軽くしたり、高齢者・善行者の表彰、困窮者の救済、官位の昇進を行い、その上に武蔵国の税が免除されたと「続日本紀」に書かれています。
「続日本紀」は当時としては公式な歴史書であって、「和同開珎」のことはこんなあれこれ書いてある一方、
確かにそれより古いものとして見つかっている「富本銭」のことは、史書には語られていないようす。
となると、やっぱり富本銭は将来的な実用を目指して実験的に作ったものなのでしょうか。
そうだとすると、鋳造場所であろう畿内近辺で発見されるのはともかくも、
遠く離れた上州・群馬藤岡からも発見されたというのは?…。
もっとも発見されたのは1枚きりのようですし、上州は大きな古墳が多いことからも、
古墳時代以前から勢力ある豪族がいたように想像されるところですので、
何らかの手立てで特別に入手したものかもしれませんですね。
ところで、肝心な「和銅」(日本の銅ということでなくして、自然銅のことだったのですなあ)が
発掘された場所というのはこちらの崖になります。
「露天掘り跡」の立て札が無ければ、というより立て札があっても「ここで…」という印象。
解説板も(長年放置されているのか)どえらく汚れたままになっておりまして。
地質学上では「出牛-黒谷断層」と言われますが、造山活動による基盤の秩父中古成層と、堆積による第三紀層の断層の露頭に噴出、凝結した自然銅が和銅(ニキアカガネ)と呼ばれたのです。
かつては和銅のおかげで武蔵一国の税が免除されるなど、多大な恩恵をもたらしたわけですが、
今や銅貨といってすぐさま思い浮かぶのは十円玉でもあろうかと。安くなったものですなあ。
それだけに?和銅露天掘り跡はかような山道の奥にひっそりと存在する場所となっておりましたですよ。