通勤途上で見かけたのですな。

追い越していった自転車に乗る人の背が異様なくらいに膨らんでいる。

どういう上着であるのか、風をはらんでかくも膨らんでいたのでしょうけれど、

真っ先には空母に着艦するジェット戦闘機のブレーキ用パラシュートのようであるかと思い、

すぐと思い直して、騎馬武者の母衣(ほろ)のようであるなあと。

 

騎馬武者の母衣は戦国時代を扱った大河ドラマなどの戦闘シーンでも見かけるところながら、

「あれ、いったい何のため?」と改めて。

 

単純に想像すると体を大きく見せる、

それが集団化することで遠目には軍勢が大きく見える?てな、

心理的効果を狙ったものであるかと考えてみたりしたものですが、

さすがに「そうだ!」というほどの思い付きではありませんので、ちと検索を。

 

「コトバンク」にあった日本大百科全書(ニッポニカ)の解説によりますと、

「甲冑の背につけた幅の広い布で、風にはためかせたり、風をはらませるようにして、

矢などを防ぐ具とした。」とは、結構実際的な武具としての役割があったのですなあ。

 

さりながら、時代が進むにつれて戦闘方式が変わっていったことで、

役割も変わってくる。Wikipediaの「名乗り」の項には

「武士の作法として、名乗りが行われている間に攻撃することは良しとされなかった。

戦場では自分の勇名や戦功を喧伝するためなどに行われ、味方の士気を上げるためや

相手方の士気を挫いたり挑発するためにも行なわれた。」とありますように、

古式床しい?鎌倉武士あたりは、名乗りあって一騎打ちをしていたりしたわけですね。

 

それが大河ドラマの合戦シーンなどに見られるように集団戦になったときには

名乗りをあげている暇などないでしょう。まま、名だたる武将同士がお手合わせてな場面では

双方の闘いぶりを周りの雑兵たちが固唾を飲んで見守るなどといった形で

象徴的に描かれることはあったにしてもです。

 

結果、母衣は武士古来の伝統として用いられはするものの、

集団戦の中では旗指物のように目立つもの、目立たせるものを用意して、

自軍の勢力であることが分かるように、また自軍の戦闘を鼓舞するように、

そんなように使われたのかもしれません。

 

目立つようにということでは、そこには芸術的な?個性が加わってもいったかも。

ちと話は違うようでもありますが、例えば武将が被る兜にも(現代人の目から見て)

なんとも風変りな、でも目立つという点では間違いのない代物が多々現れるのにも近いかも。

 

かつて練馬区立美術館で見た「野口哲也の武者分類図鑑」展 では、

こうしたところを揶揄したような珍奇な兜姿をした武者フィギュアが展示されていましたけれど、

それが決して誇張ではないことは、やはり以前に岡山県立博物館で見た特別展、

「サムライアーマー甲冑 岡山ゆかりの名品と変わり兜」展 でぶったまげたものしたわけで。

 

もっとも兜こそ武具と思うところながら、江戸の天下泰平(?)が続くと、

武士の見栄を満たす豪華な、そして奇抜な兜を飾り物として保持する傾向もでてきますので、

母衣の場合はそれほどまでに飾りに適したものではないとして廃れてもいったことでしょう。

 

しかし、時代の成熟とでもいいましょうか、あたかも縄文土器が最初はシンプルな縄目だけであったのに

後には火焔式、水煙式と言われたりする装飾性の高いものが造り出されるようになったというのと、

これもまた似たようなことなのかもとも。ヒトにはそういう傾向があるのかもしれませんですね…と、

そんなことを考えた通りすがりの自転車との遭遇なのでありました。