どうもこの時期、TVで見るものないようで…とはひとそれぞれでしょうけれど、
先日Eテレ「ドキュランドへようこそ」で放送された「オリエント急行 ―夢の豪華列車を走らせた男―」は
興味深いお話でありましたですね。
初めての海外旅行で欧州を訪ねたのはもはや30年以上も前になりますけれど、
当時は今ほど普通のガイドブック化していなかった『地球の歩き方』を片手に、
ユーレイル・パスという(まだ東西対立のあった頃ですので基本的に西欧諸国ならば)乗り放題の切符を持ち、
あちこち列車でわたり歩いたのですね。
その際、長距離の夜行列車に乗りこめば、朝起きれば別の国に到着しており、
宿泊費も掛からない(ちゃんと寝台を予約すれば別ですが)ので、いわゆる貧乏旅行御用達で
非常に便利に夜行を使ったものです。
そんな感覚があったものですから、国々が地続きという欧州域内で国をまたがって列車が走るのは
当然も当然と思い込んでしまっていましたけれど、どうもこれが簡単な話ではなかったのであるなと改めて。
そも1883年に初めてオリエント急行が開通するにあたり、これを発案し、推し進めたのが
ベルギーの実業家であったとは、思いもよらず。
漠然とですが、蒸気機関車発祥の地であり、旅行会社の草分けたるトーマス・クックのいる英国が
仕掛けたのかとも思っておりましたが。
ともあれ、ベルギーの実業家ナゲルマケーレスがアメリカに赴いた折、大陸横断鉄道に乗った経験から
これの乗り心地をよくしたもので、長い国際列車を走らせることを思い付いたのが発端とか。
ですが、当時の欧州はそれぞれの国が帝国主義的に競争状態にあり、ありていに言えば仲がよろしくない。
各国とも鉄道網はかなり整備されてきているものの、国ごとに線路幅や運行システムの細かな決め事が
ばらばらという状態だったそうなのですなあ。
ですから、とりあえずパリとイスタンブールをひとつの列車が走り抜けるにあたっては、
沿線各国、すなわちフランス、ドイツ、ヴュルテンベルク王国、バイエルン王国、オーストリア=ハンガリー帝国、
そしてルーマニア王国と、それぞれの鉄道使用に関して交渉しなければならなかったとか。
運行当初はイスタンブールまで乗り入れておらず、最後は黒海をフェリーでトルコに入るため、
トルコの鉄道との交渉は不要だったのでしょうかね。
とにかくナゲルマケーレスの熱意が実ってオリエント急行は走り出すことになりますが、
彼がいなかったらエルキュール・ポワロの活躍の場がひとつ減っていたことになりましょうかね。
そして、イタリア、スイス、オーストリア、ドイツ、フランスと夜行列車をホテル代わりにして巡るような旅ができたのも
ナゲルマケーレスのおかげということになりましょうか。
当時は「そんなことができるはずがない」という発案だったようですけれど、
そんな思い付きを実現したナゲルマケーレスには感謝しなくてはなりませんですね。