府中市をぶらりとしてきたのでありますよ。

東京で府中といえば、ユーミンの「中央フリーウェイ」に

「右に見える競馬場、左はビール工場」と歌われているあのあたりということになりますがけれど、

そも駿河府中が駿府であり、甲斐府中が甲府であり…と、そこここに府中はあるわけですね。

 

昔の古い呼び方で駿河国、甲斐国、相模国、武蔵国などと言われたうところの国府が置かれたところ、

そのいずれも府中となりましょうから、誤解を招かぬためには武蔵府中というべきなのかもです。

 

ということで、長らく武蔵国の中心であった府中ではあるものの、

ここを今でも東京の中心と考える人はまずいないのではなかろうかと。

戸期には甲州街道の宿場町というイメージですし、

周辺部はおそらく田畠が広がっていたでありましょうからね。

 

近くに住まっている者でさえそんな具合であったわけですけれど、

JR武蔵野線・南武線の府中本町駅で下車して間もなく、

「おお!」と驚かされることになったのですなあ。

改札を抜けてすぐ東側に大きな広場が見えたものですから。

 

全く駅前広場としては利用されていないこの広がりにまず目を奪われたわけです。

柵に沿って広場の入口にたどりついてみれば、「国司館と家康御殿史跡広場」との看板。

奥に長く見えているところが、JR府中本町駅なのでありますよ。

 

 

遠く飛鳥時代に始まるという武蔵府中の国司館(「こくしかん」ではなくして「こくしのたち」だそうな)と

天正十八年(1590年・江戸入府早々ですな)に造営されたという徳川家康の府中御殿、

歴史的には年代に大きな開きがあるわけですけれど、それでも時を隔てたこの二つの施設がここに。

 

 

今では巨大マンション前広場みたいなふうになってしまっておりますが、

どうやら多摩川の河岸段丘上にあって見晴らしがとても良い場所だったのだろうなあと。

視界に限りがある現在でも遠くの山々を見晴るかすことができるのですから、

往時はさぞやと思うところです。遠くまで見えるのは防衛上も大事な点でしょうから。

 

ところで、奥の方、マンションの手前あたりにたくさんの杭が並んでいるのが見えましょう。

国司館を構成した建物がこんなふうに配置されていたということを再現しているのですよね。

 

 

主殿(国司の生活の場)、脇殿(国司の仕事場と従者の生活の場)に加え、

倉庫に使われたとされる附属建物などの柱が並ぶ一方、

発掘後に埋め戻された場所にはマーキングで示されておりました。

 

 

ちなみにここには竈を備えた竪穴式の建物があったということでして、

「カマドの中から漆の付着した土器や坩堝として使われた土器などが出土」していて、

おそらくは国司館にある建物の修理営繕のための作業場であったろうということでありました。

 

 

と、掘っ立て柱群の手前側には国司館全景の10分の1復元模型が置かれてありました。

中央に主殿、奥にその陰にあった脇殿、右側が倉庫ですな。

正面に回ってみますと、なにやら儀式めいたようすが窺えますが、

これは新任国司を出迎える場ということのようで。

 

 

敷地内のガイダンス施設(プレハブか?!)にあった解説によりますと、

聖徳太子の冠位十二階でも知られるように、位階によって着用が決まっている服の「色」、

これをちゃあんと再現してあるということです。

 

つまり主殿を背にして立つ国司、これは「守(かみ、武蔵守ですな)」で濃いオレンジ色を、

手前側、先頭の二等官の「介(すけ)」は明るいオレンジ色、

続いて三等官の「掾(じょう)」は濃い緑、四等官の「目(さかん)」は薄い緑…となっているそうな。

 

とまあ、ここにこうした史跡がこのような形であることに、まったく予備知識無しで遭遇したものですから、

妙に得した気分(?)になって府中ぶらり歩きを始めるところとなったのでありましたよ。

 

掘っ立て柱の再現やら館の復元模型やらを眺めて、

しばらく前に訪ねた伊勢の斎宮跡を思い出したりもすることになりましたが、

斎王の館と武蔵府中の国司館ではあまりに格が違いましょうから、

盛り上げる気持ちもそこそこにしておきませんと、後にがっかりすることになるのかも。

そのあたりのお話はこの後に続くということで。