新潟で立ち寄った最後のひとつは敦井美術館でして、駅からほど近い小ぢんまりとしたこの美術館には
新潟で出向く都度立ち寄っておりますが、このたびもまた。
「明治の技巧派から平成の名品まで 近代工芸の名品展」が開催中なのでありましたよ。
明治に至るまでの長い間、武家主体の国であったことから工芸技術には刀やその刀装具、
あるいは武具の製作を通じて培われてきたものがありますですね。
明智光秀の後継者として?徳川家康が麒麟を連れてきたと、見方によっては言えるのかもですが、
いずれにせよ戦乱の時代は幕を閉じて天下泰平の世になってからは、武具の出番はめっきり減るものの、
逆に減ったからこそ実用から離れた華美な装飾が求められたりもしたことでありましょう。
結局のところ、それを実現する技術が磨かれることになったものと思うところです。
されど、明治になってもはや武士の時代ではなくなり、刀などの物騒な代物を持っていてはいけん、
とまあ、そういうことになってまいりますと、困るのは職人たちでありましょう。持てる技術の使いどころが無い。
そこで物騒でないものを作り出すわけですなあ。
もとより技術力はありますし、日本のものが万博を通じ、世界で人気だと分かってきますと、
またまた職人たちの出番、海外向け輸出産品をどんどん作るべしとなったりする。
陳腐なものを生み出すのは職人魂が許さず、昂じて見る者皆を驚かしてやろうと思ったかどうか、
超絶技巧の限りを尽くし、今となってはどうやって作ったのか分からず再現できないような作品まで
生み出すようにもなるのですなあ。
まあ、この展覧会では明治の技巧派と言いましても、そこまでびっくりさせられる作品はありませんですが、
改めて説明書きに触れてみれば、単に(といっては失礼ながら)漆工芸ひとつとっても、
「漆は一回塗ると乾燥に3日を要し」、塗り重ねること100回に及んでも厚さは3mmほどであるとか。
これだけ考えても何とも大変な作業であると知ることになるのでして。
漆芸に限らず、そうした大変な作業を経て出来上がっているのであるなと思いつつ接する作品の数々、
陶芸、竹工芸、金工などなど、いずれも「すごいですねえ、手間ひまかかってるねえ」と思うものばかり。
取り分け、「平文」という平安時代に流行ったという蒔絵技法を昭和に用いた大場松魚の漆芸作品には
「ほお~!」と思ったものでありましたですよ。
さりながら数々の工芸品の展示を見ながら思うところとして、
工芸品のデザインは本来ならば高度な技巧を伴うものながら、
見た目の再現と言う点では今やプリントという簡便な方法で作れてしまうような。
焼きものの表面にしても、また金蒔絵にしてもです。
本物を見れば違いが判る、凝っていることが分かるとしても、
モノが本来なれば普段遣いのものながら、いわゆる本物はとても普段遣いできる金額で
購入することはできないでしょうから、ついついプリントもので済ませてしまうのが庶民ですなあ。
工芸もまた芸術である、ということに意義を唱えるつもりはありませんですが、
民藝運動の結果として普段遣いと思われたものに、思いもかけぬ価値がついてしまったりすることに
そも日用の美とは…と考えたりもするところです。
おそらく普段遣いの満足感はひとそれぞれで、「これ、いいなあ」と思ったものがいい。
それを使うことに満足する。それが日用の美なのでありましょう。
それがもはやガラス越しに鑑賞するものとなってしまうことは、
作り手にとってはどんなふうに受け止められているのでありましょうかね…。