江戸狩野の展覧会を見た板橋区立美術館の近くには

やはり区立の郷土資料館がありましたので、せっかくですからこちらも覗いてみることに。

 

 

地域地域の郷土資料館はその土地の歴史を語る展示が多いわけですけれど、

板橋と聞いてまず思い浮かぶのは中山道の宿場町であるということでしょうか。

東海道に置かれた品川宿、日光街道の千住宿、甲州街道の内藤新宿とともに、

中山道の板橋宿は「江戸四宿」のひとつに数えられておりますから。

 

宿場は大いににぎわったようですけれど、そのにぎわいもあくまで街道沿いだけであって、

今でこそ高島平団地が立ち並ぶあたりはかつて徳丸原と呼ばれるくさっぱらであったそうな。

もっぱら近くの農民が馬草を得るために浸かっているだけだったようですけれど、

この広い草原を使って天保12年(1841年)「日本発の西洋式砲術調練」(大砲発射訓練)が行われたと。

 

このとき調練の指揮を執ったのが長崎生まれでいち早く大砲に目をつけ、砲術研究に努めた高島秋帆であったことから、

後に徳丸原は高島平と呼ばれることになったようでありますなあ。

 

 

館内に展示されている砲弾は実際に高島平(徳丸原)からの出土品であるといいますし、

館外の入り口前にごろごろと大砲が置かれてあったのも、こうした関わりからだったとは。

 

 

左側の大砲は蘭式12ポンド施条加農砲(カノン砲)というものだそうですが、

オランダに機械を発注し、日本国内で製造したものとか。そういえば、ヴェルニーが横須賀造船所で使ったのも

オランダ製のスチームハンマーでしたなあ。

 

とまれ、明治の近代化にあたって板橋の地では火薬製造所が置かれるのも、

こうした砲術調練が行われた場所であることと関わりがありましょうか。

されど近代的工場とはいえ、大きな広がりを持つ徳丸原全体を使うわけではありませんので、

土地としては明治以降、開墾されて水田に変わり、「東京屈指の米どころ」として知られるようなになるそうな。

 

ではありますが、時代とともに減反の時代を迎えますし、一方で東京では住宅事情の改善が求められるように。

その両方に応えるための開発が高島平団地の建設であったということです。

1972年(昭和47年)に入居が開始されますけれど、「一部の分譲地では最高3,000倍という競争率」であったとは、

その当時憧れのライフスタイルだったというにもなりましょうか。

 

ちなみに多摩ニュータウンへの入居もほぼ同時期だったようですけれど、

都心への距離は高島平の方が圧倒的に近い。この点も高島平の高倍率を生んだのでしょう、きっと。

ただ、今となっては入居者の高齢化が問題ともなっているのは多摩ニュータウンと同様でありますなあ。

 

 

と、ここまで見てきた常設展示とは別に「甲冑刀装」という展示が行われておりました。

古い鎧兜や刀剣を展示するということではなくして、今では工芸品と見られるものを製作する技術を、

今に伝える人たちの仕事ぶりを紹介するもの、板橋区内にはそうした方々もおられるようで。

 

それにしても、刀の製作といえば刀鍛冶しか思い浮かびませんでしたけれど、

刀剣柄巻師(握りの部分を糸や皮などで補強・装飾する職人)ですとか、

白銀師(金・銀・銅などの金属を加工して、刀装具を作る職人)ですとか、

いろいろと細かく専門が分かれているというのですね。

それぞれの匠の技を継承するのはなかなかに大変なことでありましょう。

何しろ今ではおよそ実用的価値は無い品々であるだけに…。