ひと頃、株主の投資ファンドからの要請で「よもや廃止?!」と取り沙汰されていた西武秩父線、

とりあえず騒ぎが収まったのでしょうかねえ、何事もなかったかのように運行が続いているようですけれど。

 

この西武秩父線はかつて西武の拠点である軽井沢まで延伸が計画されていたてな話を聞いたことがあり…と、

まあ、そんな話にもふれようかと思いましたら、Wikipediaにきっぱりと「噂」でしかないと記されて、

なあんだ…と思ってしまったりしたですが、鉄道が通るかどうかというのは結構気になるところでもあろうかと。

ま、個人的な感想ですけれど(決して鉄オタではないんですけどね)。

 

とまれ、そんな噂もささやかれるほどに開発に取り組んだ西武なわけですけれど、

この西武の仮想敵?が東急でありますねえ。堤康次郎vs.五島慶太というわけで。

 

鎬を削った名残りの一端が箱根に見てとれることは獅子文六の小説「箱根山」に詳しいところですけれど、

いずれ劣らぬ剛腕経営者でありましたから、直接対決でない場面でも、あちらこちらの開発に余念がなかったのであるなと、

話はもっぱら東急のことではありましたが、これまたちょいと前に北海道新聞の日曜版で見かけた記事で、

「なんとまあ、五島慶太は北海道に東急王国を夢見ていたのであったか」と知るところとなったのでありますよ。

 

そも東急電鉄の始まりは、渋沢栄一らが関わった田園都市開発にありますね。

これは今の東急田園都市線の伸びるエリアとは違う場所、要するに田園調布あたりの分譲地開発でして、

当時の建物を江戸東京たてもの園で見ることができます。

 

それまでは要するに田園だった場所に宅地を造るのですから、当然にして住民の足が必要になる。

そこで、開発に携わった田園都市株式会社が鉄道部門を設け、これが分離独立して出来た

目黒蒲田電鉄(後の東急目蒲線、今はこの名称もありませんが)を五島慶太が仕切るようになっていくわけです。

 

それが今でも東急の路線である東横線、田園都市線(かつての世田谷線)、池上線などと路線網が広がり、

やがては大東急と呼ばれる時代が来るようにもなるのですな。

その時代、今の小田急、京王、京急、相鉄などは全て東急傘下になっていたりしたと。

 

太平洋戦争後の1948年、大東急は解消されることになりますが、

総帥の五島慶太として違った形で大東急の夢よもう一度と目を付けたのが北海道であったのかもしれません。

1957年のことだそうです。

 

記事に曰く、東急の沿線開発は阪急の小林一三に倣ったものとありましたですが、なるほどなと。

路線の延伸と宅地や商業施設等の開発を共に進める形と言えましょうか。

そうした発想で開発を手掛ける場所として、北海道の地は魅力的でもあったということなのでしょう。

 

五島は札幌で講演を行い、「まず札幌を中心とした私鉄を統合する」と同時に

従来の鉄路を延伸して「江別~札幌間に約20キロの鉄道を敷設する」とぶったそうな。

ここで「まず」と言っているのは文字通りに「これが始まりですよ」と言っているわけでして、

バス路線を東急が仕切ることを想定し、百貨店も置き、ホテルも造り…と大きな話であったようです。

 

「強盗慶太」と異名をとるだけあって、計画実現には毎度相当に強引な手法がとられたようですが、

1959年、総帥の死とともに事業には急ブレーキがかかることに。

跡を継いだ息子の五島昇は父親に比べるとも少し堅実だったのかもしれませんですね。

こんな言葉を残していると、Wikipediaに紹介されておりますよ。

全国展開、あるいはナショナルブランド化は安易に進めてはならない。まず、偉大なローカルブランドとなることが出発点だ。

本拠地からして東京の「偉大なローカルブランド」となるてなことでしょうかね。

ですから、北海道東急王国の夢の名残は札幌東急ホテル、東急百貨店札幌店と、

じょうてつ(定山渓鉄道)が東急グループであるてなあたりであろうかと。

 

それでも、伊豆急や信州の上田交通などが東急系列であることは

これまた大きな野望の夢の跡てな気がしてくるような。

それにしても夢の跡としては、北見工業大学という国立大学の敷地内に

民間の経済人である五島慶太の銅像が建っているという、記事の紹介には「ほお~」と。

 

こんな事例もまた、五島慶太が夢見た北海道東急王国を知るよすがなのでしょうなあ。

兵ともが夢の跡的な雰囲気ではありますが…。