江戸東京たてもの園の特別展 を見て、明治日本で洋風建築が始まったあたりを記しましたので
その続きをと考えておりましたですが、この際、「たてもの園」たる実際の建物展示そのものに
触れていった方が手っ取り早いと気付いた次第。
見て回った順番は歴史的時系列とはばらばらではありますが、
取り敢えず園内へと入ってまいることにいたします。
園内は結構な広さでありまして、そのあちらこちらに保存建物の建っている。
(マップでは判別しにくいですが、どうぞご容赦を)
さしあたり、ビジターセンター(中央下側にある特別展をやっている建物)を抜けて
まず建物が目に付いたところで、西ゾーン(地図では左側部分)を見て回ることに。
のっけからうっかりして建物の全体像が無いのは困ったものですが、
ともあれ、最初に覗いてみたのは「田園調布の家(大川邸)」という建物でありました。
田園調布 の開発は、大正7年(1918年)に
渋沢栄一が田園都市株式会社を設立したところから始まるのですな。
都心への人口集中はお江戸の時代にもありましたけれど、
近代化による産業の発展は都市の住環境を悪化させることになっていったようで。
そこで渋沢としては郊外の農村を宅地にして、自然に囲まれた住宅地=田園都市を
造り出そうと考えたようです。
当時の宣伝広告を見てみますと、「煤煙飛ばず塵埃揚らず」と謳われるとは
如何に都心部の環境悪化があったろうかと考えてしまいますですね。
渋沢の会社による宅地開発は洗足や大岡山でも手掛けられたですが、
後に田園調布となる多摩川台地区は大正12年(1923年)に分譲を開始、
同年に起こった関東大震災で都心を離れる人たちもおり、好調な売れ行きであったとか。
田園調布は独特な区画割りがなされていることでも有名ですけれど、
その区画区画にどんな家を建てるかは土地購入者の自由であったところながら、
「公園のような町に」というイメージを守るために協定を取り交わしたそうでありますよ。
例えば、買主との協定によって建物は3階以下とすること、
建物を建てる面積は宅地全体の5割以下とすること、
塀をつくる場合は瀟洒なものとすることなどなど。
これが田園調布の街並みを温存しているわけですが、
その実、今でも好きなようには建て替えられない不便というにもなってきておるようで。
とまれ、かような田園調布の宅地に大川さんという方は大正14年(1925年)邸宅を建て、
(所有者は何度か変わったものの)1993年まで使われていた建物が園内に移転され、
創建当時の姿に復元されたということです。
この平面図も見えにくいでしょうけれど、
昔ながらの日本家屋のように部屋に廊下を添わせる形ではなく、
居間を中心に周囲の各室に出入りを可能にしているという点に特徴があるということです。
おそらく当時としては新しいコンセプトだったのでしょうなあ。
コンセプトのみならず、家具を含めた内装なども当時としては「新しい」として
「モダンな住宅」と思われたことでしょうけれど、「モダンな住宅」という同じ言葉を使っても
今の言葉の意味合いとしては「レトロな」モダンさを感じられるところかと。面白いものですね。
だからといって魅力がないかと言えばそうではない。
そうした魅力を湛えているからこそから、復元されて保存展示されることにも
なったのでしょうけれど。
このあともまた個人のお宅を見に参りますが、それはまた次に。