さて、ライプツィヒ・ゲヴァントハウスの話に及んだところで、朝の散歩は一旦終了。
そのゲヴァントハウスのあるアウグストゥス広場にまた戻って、ここからトラムで移動することに。
広場の電停から15番のトラムに乗りまして、ちと音楽軌道とは別の興味を満たす場所へと向かいます。
東南の方角でしょうか、しばらく揺られていきますと、Völkerschlachtdenkmal(諸国民戦争記念碑)という停留所に到着。
諸国民の戦いとも呼ばれるライプツィヒの戦い。ナポレオン戦争の中で流れが大きく変わる一戦のあった場所に、
このような巨大建造物が聳え立っているのでありました。
先に触れましたイエナ=アウエルシュタットの戦い(1806年)でナポレオンの軍門に下ったドイツ諸邦でありますが、
1812年、チャイコフスキーの大序曲でよく知られるこの年にロシア遠征を断念し、
敗残兵の一群となったナポレオン軍が引き揚げてくるのをころ合いと、解放を目指す諸国が戦いを挑んだ。
それが1813年10月のライプツィヒの戦いでして、プロイセン・ロシア・オーストリア・スウェーデンの連合軍が集まったことから
諸国民戦争、諸国民の戦いとも言われるのですなあ。
ナポレオン率いるフランス軍19万、諸国連合軍36万がライプツィヒ近郊のこの場所で激突、
結果はまさにこの巨大な戦勝記念碑が示すとおりにナポレオン軍の敗退となったわけですが、
このときの連合軍司令官がのちにスウェーデン国王カール14世ヨハンとなる人物なのですな。
以前にも触れたことはありますが、かつてナポレオンの麾下にあった将軍ベルナドットその人でありまして、
スウェーデンに送り込まれ、ナポレオンの目論見としては傀儡国家になるはずだったところが、
先頭に立って戦いを挑んでくるとは。ナポレオンもその思惑違いには歯噛みしたのではないでしょうか。
とまれ、この巨大建造物、こう言ってはなんですが「ああ、ドイツだなあ」という印象がありますね。
以前、ライン河畔の高台で見たゲルマニア像を彷彿させるといいますか。
造られたのは1913年、ライプツィヒの戦いの戦勝100周年であったそうですが、
時代は第一次大戦へと向かってひたひたと歩を進めていく時節、
その時代背景がここには凝縮しているような気がするではありませんか。
入口を守る巨人像は大天使ミカエルだというのですが…。
という厳つい外観の記念碑の中へと入ってみることに。
中は中で鎮魂の意味合いを込めた空間だとは思いますけれど、
なんとなあく神々の去ったヴァルハラ神殿でもあらんかといった想像をしてしまいましたですよ。
最上階まで上がりますとオープンエアの展望スペースになっておりまして、ぐるり周囲を一望できます。
独特の形ですぐにそれと分かるCity hoch hausが見えますので、こちらは市街地の方向ですな。
しかしてその反対側は見れば、「ああ、ドイツだな」と。
先にライプツィヒは人口が60万ほどで自宅近隣で例えるならば八王子か?てなことを言いましたですが、
相当に山に近い八王子でも、このような森の広がりは見られるものでは無い。山ではない、森なのですから。
ただ、ここでかつて大会戦が行われたとすると、以前は広い原野でもあったのでしょうか。
ちょうどライプツィヒの戦いから2年後に最終決戦が行われたワーテルローのように。
ただし、その前に連合国軍はパリに侵攻、ナポレオンはエルバ島に流され、やがて脱出、百日天下を経て…と
まだまだ歴史は動くのですけれど…。