小林研一郎の指揮、読響の演奏でチャイコフスキー を聴いてきたのですね。

曲目はヴァイオリン協奏曲と交響曲第6番「悲愴」という、

無駄を省いた?二本立てでありました。


読売日本交響楽団第165回東京芸術劇場マチネーシリーズ


しかしながら、アレクサンドラ・スムを独奏に迎えたヴァイオリン・コンチェルトの方は

コメントできない状況でありまして…。


なにせ隣の人の、妙に規則正しい寝息にばかり耳がいってしまい、

とても演奏を聴くどころではなかったものですから。


強奏炸裂の箇所もあるヴァイオリン協奏曲でこの状況なれば、

ほおっておくと「悲愴」では再び耳が隣の寝息にいってしまうことは必至と思ったものですから、

思い余って休憩時間にいささかの苦言を呈してしまいましたですよ。

逆ギレするような人でなくって、よかった、よかった。

おかげで「悲愴」は十二分に堪能できました。


それにしても、小林研一郎の曲作りは大したものですなぁ。

昨年4月にも同じ読響でスメタナの「我が祖国」全曲を取り上げて、

思わず「ううむ」と唸る演奏を引き出していたですが、

今回の「悲愴」には強烈に個性的というようなふうには感じないものの、

全体のバランスの良さは、正しくこの指揮者から導き出されたものであったでしょうし。


ところで、このチャイコフスキー作曲、交響曲第6番ロ短調作品74は、

「悲愴」というタイトルが人口に膾炙しとるわけですけれど、

今回の演奏を聴く前に垣間見た一文にはこんなことが書かれておりました。

この作品には「パテティック」(Pathétique)とフランス語による副題が付されている。初演の翌日、モデストと相談し、「トラジック(悲劇的)」ではなく、「パテティック」を付すことに決めたという。この「パテティック」(ギリシア語の「パトス」に由来)は、「悲愴」が定訳だが、原意は「燃えるような興奮に満ちた」であって、悲しみの含意はない。ベートーヴェンの《悲愴ソナタ》同様、むしろ「情熱」と認識するべきかもしれない。しかし、「悲愴」とは、作品に悲劇的な要素が読みとれるからこそ通用してきたとも考えられる。そうであれば、「悲愴」という邦題が導く想像力も、今なお無価値とはいえまい。(ユーラシア・ブックレット「チャイコフスキー 宿命と憧れのはざまで」より)

ともすると、「悲愴」とのタイトルが(その日本語の語感から想起する)先入観を呼んで、

実はいろいろと起伏のあるこの音楽のどの部分においても

ついつい「悲愴なるもの」のイメージと結びつけて聴いてしまいがちなような。


確かに、肩より低く頭を垂れてしまうほどに沈鬱な悲愴感が感じられるところはある一方で、

時として現れる夢見るようなメロディーをどう「悲愴」と結び付けよう、

第3楽章のような、思わず「行け~!」と叫びたくなる進軍マーチをどうとらえよう…

てなことを考えてしまうと、反って「悲愴」のイメージに収斂できないかもと

目を瞑ってしまっていたかもしれませんですね、これまでは。


それが実のところタイトルの含意は「燃えるような興奮に満ちた」ということであれば、

ひと言でいうとチープですが「激情」てなふうでもあって、

されば何も悲嘆にくれるだけに限らず、喜怒哀楽のどれであっても

激情には通ずるところではなかろうかと。


そこで改めて各楽章に付された表現上の指示を見てみれば、

それこそ日本語のタイトルに合致しそうなくらい凄絶な悲愴感を湛えた第4楽章こそ

「Lamentoso」(悲しげに)されていますけれど、それ以外には感情表出に繋がる指示はありません。


またこの交響曲で有名な部分である極端な強弱記号の付け方(ffffとかppppppとか)も、

「だから悲愴だ」というよりは何らかの(何らかは部分によるわけですが)激情の度合いを

示しているやに考えるとすっきりしますですね。


つまり、これは「悲愴」じゃないんだと考えると、なるほどストンと落ちるなと気もするわけです。

が、今さら「悲愴」でないタイトルを奉られたとしたら、それはそれで違和感ありそうな。

ま、「悲愴」という曲ではあるけれど、内容としては必ずしもそうでないことを意識しておればいい

てなことになりましょうか。


それ以上に、何かしらを直接に物語ってくるわけではない音楽という表現形態から

受け手はただの音のつながりでは雄弁な語りを聴いてしまう…

という不思議体験だと思えばいいのでありますよね、きっと。