先日の「行ったつもりの演奏会(?)」ではベートーヴェンの「英雄」をエーリヒ・クライバーのCDで聴き、
これがお気に入りと申しましたですが、ひと頃は執心のあまりにエーリヒ・クライバーのCDを中古ショップで
ずいぶんと探しまわったりしたものでありました。
ですが、第二次世界大戦の間を南米で過ごすことになってしまったクライバー、必ずしも録音は多くはないようでして、
見つかったのは小さなレーベルが復刻したようなものが多かったような。
そんなことを思い出しつつ、久しぶりにしばしのエーリヒ・クライバー三昧、まずはこちらの2枚です。
いずれもSP盤の再生音を改めて録音したのでしょうか、
レコードの溝を針が走る音が反って古い音楽を聴いている錯覚を起こさせはするものの、音質的には悪くない。
もちろんモノラルで痩せた感じは否めないものの、昔の人たちはそれでも音楽を受け止めて楽しんでいたのだなと、
その後の音質向上に慣れてしまうと忘れてしまう感覚を蘇らせてくれるところもありましょうかね。
いずれも1930年代の録音が中心で、ワルツや舞曲、歌劇の序曲が主な小品集。
いちばん古い録音は左側の盤に収録された1923年ですので、これは大正時代ではありませんか。
大正琴といえばそれだけで懐古的な音であると思ったりしますが、
泰西でのこの時代の音楽はとくに浪漫の香りが濃厚で。
曲は「美しく青きドナウ」ですけれど、時折現れる弦の纏綿たるポルタメントが悩ましい…。
なかなか苦労人であったエーリヒは(クライバーはというと、どうしても息子をイメージしてしまい…)
ドイツ各所で下積みを重ね、先の録音がある1923年、いよいよベルリン国立歌劇場の音楽監督に抜擢されて、
30年代にかけて活躍の時期を迎えるのですな。
上の2枚のCDはその頃の音楽を集めていますけれど、同じく1930年代の録音ということなら、
独自音源を持つテレフンケンの遺産を集めたというこちらのCDはノイズがほとんどなく、
非常に聞きやすい音となっておりますなあ。
とまあ、エーリヒにとって1930年代は黄金時代ともいえるようであったと思うところながら、
この時代、ナチスの足音が近づいてくるのですよね。エーリヒはナチスとは相容れるところがなく、
有名な「ヒンデミット事件」でもフルトヴェングラーと共に作曲家ヒンデミットを擁護し、
結果ドイツを離れることになってしまうという。
この後、フルトヴェングラーはあくまでドイツに残る選択をしたわけですが、
そのあたり「Taking sides」という芝居にも描かれて、ナチスとの関係が微妙に見えるフルトヴェングラーの一方、
エーリヒはベルリンを出てヨーロッパ各地、果ては南米までも演奏しに出かけることに。
折あしく1939年、欧州大戦が始まった時にアルゼンチンのブエノスアイレスで足止めを食らい、
戦争中を通じて彼の地で活動をすることになってしまうのですな。
戦後はしばらくしてヨーロッパに戻りますけれど、戦争終結直後の1946年~1948年には
しばしばアメリカのNBC交響楽団(トスカニーニの手兵として有名ですね)を振っておりまして、
そのNBC交響楽団とのライブがCDになって出回っておりますよ。
先のテレフンケン音源のCDに比べると、10年余りも後の録音ながら音質は圧倒的に芳しくないのが残念。
さりながら、音質はともかく録音された音楽がそもそもありがたかったであろう昔の人の耳になって聞けば(?)、
結構没入できるものだなあ…とは、改めて。
内容は30年代録音を集めたものとは違って、ベートーヴェンやシューベルトの交響曲など、
少しばかりボリュームのある曲目が並びますが、その中では取り分けチャイコフスキーの交響曲第4番、
これの燃焼度高く、ライブならではの盛り上がりには、エーリヒに「こういう面もあったかあ」とも。
何しろ第1楽章が終わっただけで万雷の拍手…とは、演奏会では禁じ手ながら、曲が曲なので分からなくもない。
ただ時折かかる急ブレーキのようなテンポのゆらぎには「大時代的な」という気もしますけれどね。
もひとつチャイコフスキーの余白に入っていましたラヴェルの「ラ・メール・ロワ」組曲が、
先の交響曲と打って変わって淡々と。それがフランス音楽の、というよりラヴェルらしい室内感(?)を演出して
とてもしっくり来たのですけれど、これまた意外な印象でしたなあ。
ドイツっぽさでばかり、意識していたものですから(実際はオーストリア生まれですが)。
ところでこのエーリヒ・クライバー、南米公演中に大戦勃発となって足止めを食ったのは分かるとして、
活躍の場がアルゼンチンであったのはどうしてなんでしょう?
名望ある指揮者だっただけに、戦後にこの録音のようにNBC響を振ったりしているわけですから、
合衆国に移ることもできたのでは…と思ったところが、直接的にアメリカへ亡命してきた音楽家たちがいて、
求職過多の買い手市場になっていたのかもです。
でもって、戦争が終わり、アメリカ亡命組がヨーロッパへ戻れるようになるとようやっと
南米から合衆国へと出てくることができた。ヨーロッパの方は戻ってくる人が多い一方で、
戦争直後ではたくさんの音楽家を迎え入れられる状況になかったようにも思いますし。
1954年になって古巣のベルリン国立歌劇場への返り咲きが叶いますが、
すでにそこは社会主義国東ドイツとなっていて、ナチスとも喧嘩したクライバーがうまくいくわけがない。
翌1955年には辞任してしまい、客演先のスイス・チューリヒで亡くなるのが1956年1月とは…。
65年余の生涯の中、音楽家としての働き盛りの時期を戦争で奪われ、
ヨーロッパに戻ってようやくこれからというときに亡くなってしまったのはつくづく悲運な人だなあと。
と、ここまで長々書いてきて思い出したですが、モーツァルトのオペラ4作を10CDに収めたボックスセットに、
エーリヒが最晩年の1955年6月にウィーン・フィルを振った「フィガロの結婚」が入っておりましたっけ。
これもまた折を見て、聴きなおしてみることにいたしましょう。