先に『帝国ホテル建築物語』を読みましたときに、設計をフランク・ロイド・ライトに委ねて、

悪戦苦闘の建設現場に立ち会うことにあったホテル支配人が林愛作という人物であったと知ったわけですが、

「人物」を買われて本人さえ思いもよらぬ経歴をたどることになるのは明治期の人物にままありますね。

 

この林愛作という人も、渋沢栄一に請われて帝国ホテル支配人に収まる以前は、

ホテル業界・観光業界とは関わりのない美術商の勤め人だったのですなあ。

 

いずれも顧客サービスという点ではいささかのつながりはあるとしても、

「その才をここで活かしてほしい」といった抜擢のありようはなかなか今のご時世には馴染まないかもながら、

抜擢する側の目の確かさといったものも今や失われつつあるのかもしれせんですね。

ま、林自身が抜擢人事であったことも、後に林が牧口銀司郎を抜擢することに繋がったりしているのですけれど。

 

とまれ、そんな林愛作の前歴は美術商と言いましたが、勤め先はニューヨークの山中商会。

日本、中国を主に広く東洋美術を商って、明治から太平洋戦争前夜にかけ、広く世界を相手にした会社であったそうな。

 

なにせ最盛期には5番街の53丁目と54丁目の間に店を構えたと言いますから、

今では超有名ブランドショップが立ち並ぶ一等地であったのですなあ。

貸主はロックフェラーだったということで。

 

ですが太平洋戦争の始まりとともに、ニューヨーク、ボストン、シカゴなどにあった店舗は閉鎖、

商品は接収されて競売にかけられてしまい、結果、世界で知られた山中商会の名前も歴史に埋もれていったようで…。

 

ハウス・オブ・ヤマナカ―東洋の至宝を欧米に売った美術商/朽木 ゆり子

 

そんな山中商会の起こりから終焉までを、『ハウス・オブ・ヤマナカ 東洋の至宝を欧米に売った美術商』なる一冊は

描き出しておりましたですよ。『帝国ホテル建築物語』の参考図書として巻末にあったので、手にとってみたわけです。

 

本書によれば、林愛作はニューヨーク山中時代に後藤新平にスカウトされ」たということですので、

直接的に渋沢栄一からではなかったのかもしれませんが、後藤新平の目にも狂いはなかったと申しますか。

その後藤新平自身、畑違いの分野で大きな活躍していった人物でしたなあ。

 

ちなみに林愛作の前歴ですが、「10代でサンフランシスコに渡って高校に通い、

その後ウィスコンシン大学に学んで、ニューヨーク山中商会で働くようになった」とのこと。

ウィスコンシン大学はフランク・ロイド・ライトの母校でもあって、同窓の誼もあったでしょうか。

 

ところで、東洋美術を手広く扱った山中商会ですけれど、「帝国ホテル建築物語」でその存在を知ったときには

「ああ、日本の古美術をごっそり海外に売り払ったのだあね」てなことを思ったりしたですが、

どうやらそうとばかりも言えないようで。

 

山中商会のもともとは大阪の古美術商であったことからしても、最初期にはまさに日本の古美術を扱い、

その後も全くなくなったわけではないでしょうけれど、明治も時代が進むにつれて自国文化の見直しが進んだり、

一方で輸出品の乏しい頃の日本では文化芸術を送り出すことが国策にかなうこともあったにせよ、

それは必ずしも古美術ではなく明治リアルタイムの超絶技巧工芸品であったりもしたようで。

 

ちょうど万国博覧会なるものが輝きある存在であったころ、日本でも伝統を活かしたリアルタイムの工芸品を飾り、

多くの欧米人の目を引くことになったのだとか。展示物は万博終了後、競売にかけられて活況を呈したとも。

 

また19世紀末から20世紀初頭にかけて中国の政情が極めて不安定になったおり、数多の中国美術品が放出され、

これを山中商会でもかなり大規模に買い付け、アメリカや日本で売りさばいたようでありますなあ。

 

古美術の海外流出は、日本のものでなければそれでよしというものではありませんから、やはり微妙なところあり、

清朝王統に連なる人たちからの大量放出は倒れ行く王朝をなんとか保たせる資金ともなったようですが、

一方では先日の「歴史秘話ヒストリア」で紹介された梅屋庄吉のように一貫して孫文に肩入れした者もいたわけで。

このあたり、その当時になぜそういう判断をしたのかといったことを、後のものさしを当ててとやかく言うのは

詮無い話なのかもしれません。

 

ともかく、間違いなくひと時代を築いた山中商会は太平洋戦争の露と消え、

数々の東洋美術はアメリカのコレクターや美術館に所蔵されているという今がある。

どこをとっても微妙…な感じを抱きつつも、本書を読み進めながらちがった印象の芽生えもまた。

そのことは著者が最終章に記した、こんなひとくだりに集約されるかもしれません。

異文化間の交流に、美術品の移動はつきものだ。美術品の場合は、人に先がけてその価値を発見した人々によって、新たな文化が創られることもある。そして、価値を発見するのが外国人である場合も稀ではない。たとえば浮世絵や琳派などは、十九世紀末から二〇世紀初めにかけて、フランス人やアメリカ人が夢中にならなければ、その価値が理解されるスピードはもっとゆっくりしたものになっていただろう。

つくづくものの見方は通り一遍でなくして、複眼的でなくては物事の理解が狭いところに留まってしまうような。

ふいに手にした一冊がまた教えてくれたのでありますよ。