とまあ、そのようなライプツィヒのマルクト広場でありますが、

広場に面した旧市庁舎の裏側にナッシュマルクトという小広場がありまして、

大きなマルクトの方でないこちらにさる著名人の銅像が建てられてあるのですよね。

 

 

その名はヨハン・ヴォルフガング・ゲーテライプツィヒもまたゲーテ街道の町のひとつですものねえ。

で、ゲーテとライプツィヒとの関わりは…?となれば、像の裏側に回ってみると判明いたします。

 

 

「Student in Leipzig 1765-68」と刻まれておりますな。

父親の意向により16歳のゲーテはライプツィヒ大学で法学を学ぶため、故郷フランクフルトをあとにします。

元より文学志向であったゲーテは、法学にはあまり熱心になれなかったようですけれど、

後々、小国とはいえヴァイマールの宰相となるからには、このときの知識はいささかなりとも役立ったのではと。

 

そればかりか(法学への関心は薄かったにせよ)ライプツィヒ時代には自然科学への目覚めが生じ、

後に地質学やら光学やら、さまざまな分野に著書を残したゲーテならでは活動の根っこができたのかもしれません。

 

もちろん、ゲーテの名をいちばん知らしめているのは文学の世界ですけれど、

そちらにもライプツィヒ時代は役立ったといっていいのかどうか。

 

ゲーテ像のある旧市庁舎の広場の目と鼻の先にあるメードラー・パサージュというアーケードに

それを窺い知ることのできる場所があるのですなあ。

 

元より文学に興味があって法学に身が入らなかったゲーテ、

ずいぶんと自由きままな生活ぶりでもあったようで、御用達の居酒屋がこの中にあるのですな。

地下にあるアウアーバッハス・ケラーという、1525年創業の酒場でして、

アウアーバッハという「酒は百薬の長」的な発想から学生向けの酒場を開いたのが始まりであると。

 

ですから、ここでゲーテが文学談義に熱弁をふるおうと、ただただ気炎を上げようと、

それがライプツィヒでの若者の姿そのものであったのかもしれません。

 

 

地下に酒場に繋がる階段上には「ファウストとメフィストフェレスの像」が置かれてありますけれど、

その関わりをアウアーバッハス・ケラーのHP(簡略なものながら日本語版もあり)に見てみますと、このように。

1765〜68年、若きヨハン・ヴォルフガング・ゲーテがライプツィヒへ勉学のためにやって来た際、彼はあるAuerbachs Kellerの客人から黒魔術師ヨハネス・ファウストス博士の伝説を耳にします。店の雰囲気やその旧き伝説絵画に魅せられたゲーテは、ライプツィヒの名高き地下室を彼の『ファウスト』に登場させます(Auerbachs Kellerの場面)。

ついでですが、同じHPでは森鷗外にも触れておりましたですよ。ドイツ留学中の鷗外、というより林太郎が

1885年にこの酒場を訪ね、まさにここで「ファウスト」の日本語訳を決意したのだと(ほんとですかね…)。

 

 

食事をしに(というより、ビールを飲みにかな…)行ったのは晩飯どきでかなり混んでおりましたが、

ぽつんと一人の客でもすぐに空いたテーブルに案内してくれるあたり、好印象でしたな。

黙っていても観光客がやってくるような店ではともすると「なるほど、そうなるか…」的応対に出くわすことがあるも、

ここは至って普通に親切でありましたよ。また、飲食ともども大変おいしくいただいたのでありました。

 

 

上の店内写真は(混雑していたこともあって)天井部分ばかりになってますけれど

ーテゆかり、ファウストゆかり、はたまた森鷗外ゆかりの壁画や装飾があるとのことで

店内ふらりとしたいところではあったものの、忙しく立ち働くウエイターさんたちと接触しては一大事と

いささか遠慮をしたわけですが、店内を眺めやるにはランチどきがいいかもしれませんですね。

 

ということで、本業の法学はともかくもさまざまに広く知識・興味を得ることになった

ライプツィヒ時代のゲーテなのでありました。