ドイツ・ライプツィヒの町歩きはニコライ教会から始まって、いわゆる旧市街の中心部へ。

旧市庁舎のあるマルクト広場へゆらゆらと。

 

 

1557年に完成したという旧市庁舎の前には結構な大きさでマルクト広場が広がっておりまして、

この後も何度かここを通り過ぎましたけれど、なぜかしらこのときが一番人がおりませんでしたなあ。

 

 

別の機会にとおりすがってみれば、仮説テントが設営されていて、

地元のライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のメンバーがセッションを繰り広げており

(パッと見ではとても歴史あるオーケストラの楽団員には見えませんが)

このときには結構な賑わいを見せておりましたけれど。

 

 

まあ、(ドイツにしては)大きな町ですので(人口はおよそ60万人ほど)、

人の集まる場所が市内にいくつか分散してあるからでもありましょうかね。

 

ところで、そうしたマルクト広場のちょいと脇、路面に描かれたモニュメントでありましょうか、

かようなものを発見したのでありますよ。

 

 

写真では奥側がマルクト広場になりますけれど、そちら側には小さなプレートが埋まっておりまして、

「17. JUNI 1953」(1953年6月17日)と日付が刻まれています。はて、この日に何があったのか…。

 

この日が歴史に刻んだ事件はもっぱら「東ベルリン暴動」として知られるが故に、

事はベルリンで起こったとは思ってしまうところながら、反ソ行動はライプツィヒでも起こっていたわけでして、

鎮圧にあたるソ連軍の戦車がここまで来たのですよということを表しているようなのですね。

 

なるほどそう言われれば、2本の太線は戦車のキャタピラに見えてきますなあ。

そして、後ろ側がマルクト広場であるということは、その砲口が向いている先は反対側であるわけで、

建物があって直接は見通せはしないものの、その砲口が指し示す方向にはかのニコライ教会があるのですなあ。

 

この時はソ連軍に鎮圧されてしまうわけですが、その36年後、

ニコライ教会から発したデモが東西ドイツを結びつけたのはさきに触れたとおりでありますよ。

 

と、話は全く変わりますけれど、

ドイツの諸都市では市庁舎の(だいたい)地下に「ラーツケラー」という酒場がありまして、

もちろんレストランとして使うにも便利なわけですが、押しなべてそこそこいい評価だったりしますですね。

 

 

で、ライプツィヒの旧市庁舎では広場に面した1階にレストランがありましたので、

「ラーツケラー」と称してはおりませんが、まあ、試してみるかと夜に出かけてみたという。

結果的には「うむむ…」という具合、失敗でしたなあ(個人的な見解です)。

 

まあ、各地に出向いて食するものには失敗もあれば成功もあるわけでして、

いずれにしても旅の思い出ということになるのですけれどね。