イエナの街なか を少々歩いて、さてひと休みさせてもらいますかね…と
近くにあった教会入り込んでみることにしたのでありました。
Stadtkirche(市教会)とされている聖ミヒャエル教会です。
するとどうやらオルガンの練習中であったようす。
教会オルガニストが先生になって弟子の子供の練習を見ているといったふうなやりとりが
オルガンの響きの合間に聞こえてくるといったふうで。
ちなみにここのオルガンですが(もちろん今のオルガンは代替わりしているも)、
かつてはヨハン・ニコラウス・バッハという人がオルガニストを務めていたそうな。
大バッハ としてヨハン・セバスティアンとははとこの関係に当たるということでして、
バッハ一族はテューリンゲン地方のあちこちで音楽家として活躍していたのだなと思うところです。
ところで、寄るともになしに立ち寄ったこの聖ミヒャエル教会ですが、
1524年と1529年の2度、ルター が説教壇に立ったということでも知られているようで。
右手に見えている説教壇がまさにその当時のまま残されているというのですなあ。
そして当然にここはルーテル派の教会ですので、ルター像があってもおかしくはない。
これ、このように。
ですが、この木彫によるマルティン・ルター像、本当は立てて置かれるものではなかったようで。
といいますのも、これは単なるルター像でなくして、ルターの墓所の蓋となるはずだったもの、
そのオリジナルだというのですね。
ルターは1546年、生まれ故郷のアイスレーベン訪問中にこの世を去り、
墓所は終の棲家となったヴィッテンベルクにあるわけですが、
クラーナハが手掛け、エアフルトで加工されたこの蓋はヴィッテンベルクに届かなかった…。
まさにルターが亡くなった年に勃発したシュマルカルデン戦争の余波であったということです。
カトリックを擁護する神聖ローマ皇帝カール5世に対して、
プロテスタント諸侯と自由都市とが結んだシュマルカルデン同盟の間で起こった戦争では、
結局のところ同盟側の敗北に繋がるミュールベルクの戦いの降伏条約が
ヴィッテンベルクに結ばれたりしているのですから、まさにあたりは戦場であったのかも。
そりゃあ、ルターの墓所に据え付けたくとも、持ち込むことはできなかったのでしょう。
後の1571年、ヴァイマール大公がイエナ大学に寄付することにし、
以来、この教会に収められているということなのでありますよ。
いやはや、今回の旅でいくつかの町を巡る中、
いちばん予備知識無く立ち寄ったのがイエナでしたけれど、
思いもよらぬ歴史の遺物に遭遇したものだと思ったのでありました。