さて、旧東ドイツ地域随一の高さを誇る(?)イエンタワー から見下ろしたイエナの町を
ゆらりと巡ってみることにいたします。
まずもってイエンタワーの足元すぐ近く、
このような廃墟ともいえる城壁の名残に出くわしました。
「Pulvertrum」といいまして、やはりかつてはイエナの町を囲んでいた市壁に付属していたと。
「pulver」は、powder(粉)の意ですので、粉(小麦粉でしょうか)の貯蔵庫でもあったような。
ただ、見かけではわかりませんけれど、地下は何と14mも掘られていて、
使い途はといえば、ダンジョン、地下牢であったということでありますよ。
と、ここからかつての市壁跡とも思われる広い道沿いに歩いてみるわけですが、
道の向こう側は植物園の緑が広がっており、その中にゲーテ記念館がある…ものの、
これまた改装工事で閉まっているのですなあ。いやはや。
ところでワイマールからさほど遠からぬ距離にあるイエナで、
ゲーテは何をやっておったのかということになりますと、自然科学の研究であったそうな。
特に植物学であったとは、まさに記念館のある場所が植物園ですから…なのですが、
イエナの植物園は1586年の創立と長い歴史と伝統を持っているということでして。
とまれ、当時のゲーテは植物学の他にも鉱物学、地質学なども研究対象としていたようですが、
これは比較的鉱物資源に富んだテューリンゲン地方で、ワイマールのような小国の独立には
鉱物資源の有効活用が欠かせず、ゲーテは鉱山開発などにも注力していたとか。
ですが、そうした仕事のために、というばかりでなく、
「いしっこ」とも呼ばれた宮沢賢治ではありませんけれど、
石の持つ魅力に魅せられてもいたのではありませんですかね、ゲーテは。
そのことで思い出すのは、先にワイマールで訪ねたシラーハウス 併設の博物館でして。
てっきりシラーに関する展示と思い込んでいたところが、このときの特別展はゲーテがメインで、鉱物の見本などもたぁくさん展示されていたものですから。
研究の成果としては「ゲーテ地質学論集 鉱物篇」という邦訳本もありますし、
針鉄鉱なる鉱物にはゲータイトなる命名がなされている由。
もっともゲーテが発見したということではなさそうですが。
おっと、いささかゲーテの話が長くなりましたですが、
道の向こう左手に植物園を見ながらそのまま道沿いに進みますと、
由緒あるイエナ大学で教授を務めた人たちや
イエナ大学で学び、その後有名になった人たちを記念する碑などが
ところどころに置かれておりましたですよ。こんな具合に。
こちらはフリッツ・ロイターという詩人で、かつてイエナ大学の学生であった…と紹介されても
全部が全部ドイツ以外でも知られているというわけではないでしょうから、ここではもひとつ、
エルンスト・アッベの記念碑だけ取り上げておくことに。
アッべはイエナ大学で物理学を教えていましたけれど、
やがてはカール・ツァイス 社の研究責任者になった人であるとか。
先にもふれた、光学機器で有名なカール・ツァイス社は
カール・ツァイス財団という財団が経営するという形をとっているそうなのですけれど、
その元を作ったのがこのエルンスト・アッべであったということです。
資本家の手に握られていない、従業員本位の経営形態を目指したのですなあ。
これまた先にアイゼナハのところで触れましたブルシェンシャフト も
イエナ大学との繋がりが深いわけですから、古い体制に囚われない進取の気性がある町、
それがイエナなのかもしれませんですね。