ヴァルトブルクの城内をガイドツアーで巡りましたですが、

ワーグナーの歌劇「タンホイザー」ゆかりの「歌合戦の間 」を後にし、たどり着くのは

「方伯の間」でありました。ここにもシュヴィントの絵が飾られています。


ヴァルトブルクの「方伯の間」

先にヴァルトブルクの名の由来に触れたですが、
こちらの一枚はその由来の伝説にまつわるものでありますね。



テューリンゲンのルートヴィヒ跳躍伯 が狩りの途中で「ここぞ」と思える場所を見つけ、

指差しながら「山よ、待っておれ!俺の城になるのだから」と言っているところです。



こちらは築城の差配をしているところでしょうか。
狩りの途中でたまたま見つけた土地に城を築くことに関しては、これまた逸話があるそうで。


まずもって、自分の領土から「大量の土をその岩盤台地に運び込」んだそうなのですね。
こうすることで「城が彼自身の土地の土の上に建っている」ことを皇帝に証ししたのだとか。


ともあれ、こうした作業を行わせるには多くの人手も必要だったわけで、
テューリンゲン伯の権力のほどが偲ばれるわけですけれど、
方伯の間にある柱の、頭部を飾る鷲、脚部を飾るライオン(見えにくいですが)、
共々に「権力と力を象徴」しているのだそうでありますよ。


ヴァルトブルクの「祝祭の間」

さて、順路を進んでまいりますと大きな広間に到達、「祝祭の間」ということで。
ご覧になって想像されるとおりに、現在では演奏会場としてもよくつかわれるとか。


元は平らな天井であったものを現在見るような台形状にすることになったのは、
ワイマール宮廷楽長時代のフランツ・リスト が音響効果を考えて進言したそうでありますよ。



この広間ではMDR-Musiksommer(中部ドイツ放送によるイベント「音楽の夏」)の一環で
演奏会が開かれたりするので、タイミングさえ合えば聴いてみたかったところです。
もっとも演奏会の行き帰りに山道の上り下りがありますが…。


祝祭の間に飾られたブルシェンシャフトの旗

ところで、祝祭の間の中ほどに掲げられた大きな旗は(写真では色合いが分かりづらいものの)
後のドイツ国旗に使われる「黒・赤・金」(黄色でなく金色だった)の三色を
先取りしたものとして知られるものであるとか。


ナポレオン戦争 に敗れた際に、ドイツ(という国はまだ無いですが)では
ナショナリズムが高揚、多くの学生たちも義勇軍に参加し、
最終的にはナポレオンを撃退するするわけですが、その後のウィーン体制による反動には
どうにも納得がいかない若者たち。


1815年、イエナ大学の学生たちがブルシェンシャフト(学生運動団体ようなものですかね)を
創設したのを皮切りに、他の大学にも同様の動きが出てくるという。


そして、1817年10月18日、「11の大学から約500人の学生」がこの祝祭の間に集まり、
「ドイツ統一要求と民主主義的基本権の要求」を掲げたのだと。
広間中央の旗はイエナ大学ブルシェンシャフトの旗なのだということです。


運動自体はウィーン体制を主導したオーストリアの宰相メッテルニヒによって弾圧され、
運動は下火になっていくのですけれど、多くの領邦国家が林立している状況から
統一ドイツへと移り変わる気運を高めたということは言えるのではなかろうかと。


単に中世以来の古城というにとどまらず、
ヴァルトブルクにはこうした時代の流れとも関わるところがあったのですなあ。