さて、エアフルトの市庁舎 から中央駅方向へとトラムの走る通りを進みますと

ほどなくゲラ川を渡ることになります。



橋のたもとにある建物には「Neue Mühle」と書かれてあることからして、

三角屋根の中に見えているのは粉挽き水車であろうと思うところですが、

「neue」(新しい)といっても1735年以来、この名前なのだそうでありますよ。


ちなみにこのゲラ川はウンシュトルト川へ流れ込み、さらにザーレ川を伝って、

最終的にはエルベ川 に合わさり、北海へと注いでいるというではあるも、

この段階ではそんなことまでは想起しにくいですなあ。



と、かようなゲラ川を渡ったところで下流側へと川沿いに続く道が

ユンカーザント(貴族の砂浜といった意味かと)と呼ばれることからして

邸宅が並ぶかというとそうではないようで、実際にかつて住まった人も

貴族とまではいかないのではなかろうかと思ったり。



例えばこの、今ではその間口の狭さと高さだけが昔ふうとも思える二軒続きのお宅ですが、

それぞれ入口扉の脇に取り付けられているプレートがかつての住人を伝えてくれています。



右側のプレートにはバッハ・ファミリーの家とありますな。

かのJ.S.バッハ の父親ヨハン・アンプロジウス・バッハは元々エアフルト生まれで、

ヨハン・セバスティアンが生まれるアイゼナハに引っ越す前にアンブロジウス夫妻が

ここに住まっていたということのようで。


さらに同じプレートはこの家に「カノン」で有名な作曲家のヨハン・パッヘルベルも

住まっていた(間借りしていた)ことが書かれてありました。


実はパッヘルベルはアイゼナハからエアフルトに移ってきたのであって、

アイゼナハ時代にセバスティアンの父アンブロジウスと知り合って、

バッハ家とは親交を結んでいたそうな。


そんな関係があったからこそでしょう、

パッヘルベルが1678年にエアフルトに教会オルガニストとして赴任する際、

かつてアンブロジウス家族が住んでいた家を紹介されたのでもあろうかと。


パッヘルベル自身は1690年に転職してシュトゥットガルトへ移ってしまいますけれど、

エアフルトの住み心地は決して悪くはなかったのか、エアフルトで生まれた娘アマーリエが

なんとまあ、かつて父も住んだ家のお隣の家に住まっていたということで、

それが上の写真の右側のプレートに紹介されているのですな。

(アマーリエ・パッヘルベルは水彩画家、彫刻家として知られた人であるそうな)


過去にはそんなふうであったゲラ川沿いを、もそっと下流方向へと進んでいきますと、

ガイドブックでほんの少々しか取り上げられないエアフルトの、

数少ない観光ポイントのひとつに到達するのですが、それは次のお話ということで。