ということで「テューリンゲンカード
」も手に入れ、民泊の宿
にも落ち着いたところで、
エアフルトの街なかへと入っていくわけですが、現在のエアフルトは
テューリンゲン州の州都でありまして、マンホールの蓋にも「Landes Hauptstadt」とありますな。
ですが、かつてザクセン=ワイマール=アイゼナハ大公国といった領邦国家がありましたけれど、
東隣にワイマール、西側にはアイゼナハがあってその間のエアフルトはこの国の領土ではなかった。
なんとなれば、古くからこの地は選帝侯であったマインツ大司教の領土であったということで。
大司教といえば教会の要職ながら、当時は本来の聖職者ばかりではなくして
世俗的な君主の一族が就いていたところもあるわけですが、
それでもローマ教会とのつながりは非常に深いわけで、
近隣地域の中では大規模なものと思われる大聖堂があるものむべなるかなですな。
由緒は古く何と728年に遡るというのですから、大したものです。
もちろん、今の建物が8世紀のものではないのですけれど。
と、左側が大聖堂、右側がゼヴェリ教会、双子のように丘の上に立っておりまして、
手前側にエアフルト随一の大聖堂広場が広がっておるわけなのですが、
折しも「DomStufen-Festspiele」という夏恒例のイベント期間にあたって、
二つの教会を背景に、その間にある70段の石段がそっくり芝居の舞台となっていたのですな。
おかげでふとに訪れた者には「全貌が今一つ見えん…」ということにも。
そんな具合でしたので、裏側に回り込んで坂を登り、大聖堂の足元までやってきました。
後から気付いたのですけれど、回り込み方を反対周りにしてみれば
どうやら石段には少しばかりの通路が設けられていて、上り下りは可能だったのですな。
下りるときには石段を使いましたが、何しろ全面的に芝居の舞台になっておりますので、
舞台セットが所狭しと組んである状態ではありましたですよ。
とまれ、お隣にあるゼヴェリ教会の内部はどうやらガイドツアーで廻るようでしたので、
とりあえずは大聖堂の中へと入っていくことに。
やはりこざっぱりしたプロテスタント教会とは違いますなあ。
あのマルティン・ルター が叙階を受けたのはまさしくこの大聖堂で、ということですけれど、
もちろんその時にはローマ・カトリックの聖職者となったわけで。
そんな大聖堂の中には漆喰で作られた素朴な聖母子像があるのですよね。
「エアフルトのマドンナ」と呼ばれているそうですが、
1155年頃の作とあって、その時代を偲ばせる作りでもあろうかと思うところです。
聖母子像といえば、もうひとつがこちら。
ルーカス・クラーナハによる「マリア祭壇画」、1522年頃の作ということですけれど、
よくよく見ればいかにもクラーナハ。この画家もその作品というか、人物像に現れる個性が
実に分かりやすい人ですよねえ。
そのクラーナハはまさしくマルティン・ルターと生きた時、所を近しくしていただけに
この後もテューリンゲン各地を回る中でたびたび触れることになるのでありますよ。
ところで、教会といえばオルガンでありまして、
もちろんエアフルト大聖堂にも立派なオルガンが備え付けてありました。
J.S.バッハ の祖父にあたるクリストフ・バッハは
エアフルトの宮廷音楽家だったことがあるそうですので、
ここのオルガンを弾くこともあったでしょうかね。
もちろん、楽器は当時のものではないのですけれど…。
とまあ、イベントが開催されていたという関係もあったりして、
広場から大聖堂を見上げて「おお!」というまでの景観は得られませんでしたが、
由緒あるエアフルト大聖堂を訪ね、お次は大聖堂広場前からトラムがぎりぎり行き来する
窮屈そうなこの道を抜けてエアフルト市庁舎の方へ向かうのでありました。