ちょいと新宿の中村屋サロン美術館
に立ち寄ってみたのでありまして。
折しも「富士山-芸術の源泉-」展が開催されておりました。
世界遺産の中でも富士山
が文化遺産とされた由縁のひとつが「芸術の源泉」となってきたこと。
これは何も過去のことではなくして現在進行形で、絵画で言えば富士はこの後も
描き続けられることでありましょう。
ところで、小ぢんまりとした館内の展示室は二つで、
いずれも明治以降に日本画あるいは洋画で描かれた富士ですけれど、
入口に近い側が比較的今に近い作家(つまり存命の方もいる)たちの作品、
奥の部屋には近代日本画の著名作家が並ぶといった具合。
ともかく面白いものだと思いましたのは、
どのように描かれても富士山は富士山なのですなあ。
その存在感たるやたいへんなものと思うところながら、
こうした思いにつながること自体、富士山が文化遺産とされたところでもあるのでしょうかね。
しかし、それにしても富士の描きようというのは実にさまざまあるものですな。
ありのままを描くにしても秀麗な姿を描くものもあれば、
必ずしもきれいに見える場面でないところを描くこともあり。
また象徴的に描いたイメージから(花鳥風月といったものでない)何かしらを感じ取らせる、
抽象画ふうなものもあるわけで。
富士を富士としてきれいに描き出す系で目にとまりましたのは、
坪内滄明の「富岳」、川合玉堂の「富嶽」、そして児玉希望
の「富士」の3作でしょうか。
違いとしては坪内作品がみっとも富士山そのものに寄って、
その真白き雄姿を大きく捉えているも前景、右下側にぞわぞわと枝を伸ばす落葉した木々が
なんとも印象的なのですな。凛とした空気が感じられます。
川合作品はもそっと引いて、児玉希望はさらに引いて富士が長い裾野を引くようすがあり、
景観の広がりが見て取れるようになります。富士そのものを愛でるも良し、
周囲の景観ともども愛でるも良しと言えましょうか。
抽象とまでは言いませんけれど、山の姿を画面の中で斜めに置いた山本直彰の「不二」は
シンプルな線で構成されてはいるものの、未だ死せざる富士山(確か休火山ですね)の
奥底に秘められた荒ぶる姿が見透かせるような気がしたものです。
線で描いたと言えば、小倉遊亀の「百寿 不二」はそれこそ稜線をひと筆で描いたのみ。
これでも富士は富士ですから、存在感というかアイコン性の高さ故でしょうなあ。
そんなこんなにバリエーション豊富な富士の姿を描いた数々の作品の中で
いちばん注目したのが前田青邨の「富士」でありました。
裾野あたりがまだ雪に覆われ尽くしていないさまを描いたきれい系のようなでありながら、
伝奇的な物語をその姿かたちが体現しているようでもあって、
あたかも富士が宿すもうひとつの宗教性という側面を思わずにはいられないという。
山の途中までを覆う雪は、あたかも富士の山体が鏡面化していくような気もしてくるのですね。
周囲の湖に姿を映す富士とは反対に、山体が湖面そのものになって
周囲の景観を飲み込んでいくのでは…てなふうにも思ってしまうところでありました。
展示の規模は小さいながら、富士山のさまざまな姿が楽しめる展覧会。
そういえば、富士山の呼び方にもバリエーションがたくさんあるものですから、
作品に付けられたタイトルとその思いを画面で読み解くといった楽しみ方もあろうかと
思ったりしたものでありますよ。