常滑の「やきもの散歩道」を歩きだして招き猫尽くしの坂 を通り過ぎますと、

こんもり隆起した丘の上、やきものの町らしさが凝縮していると思しきエリアに

向かって行くわけですが、さてその途中…。


道端に転がっているのは、土管ですかね。

昭和を知る者には何やら懐かしい色つやといいますか。
さらに進むと土管が擁壁の代わりに使われたりもしている光景に出くわしたりも。




先に引用した、常滑を紹介しているJAL機内誌にはこんなことが書かれてありました。

常滑の焼き物技術は、江戸時代末期から昭和の時代まで、地中に埋める水道管などの“土管”に使われ、重宝されていた。

そして、常滑駅前 で見た『陶と灯の日』記念碑の解説には

「陶祖・鯉江方寿」という名が見られて、この人がいったいどういう人なのかと、

とこなめ陶の森資料館というところのHPにあたってみますと、このような紹介が。

天保の頃(1830~1844年)常滑に連房式登窯を導入し、新田開発や木型を用いた近代土管の開発に成功した偉大な人物です。

なるほど、他の要素はあるにしても土管の開発に成功した人物が

常滑の偉人となっているのですなあ。
あちらこちらに土管のある風景というのも、むべなるかなでありましょうか。
そして、「やきもの散歩道」を進んだその先にはかようなところまでありました。「土管坂」です。


なんでも「ふるさとの坂道三十選」選定、

「てづくり郷土賞」大賞受賞(いずれも国土交通省による)という「土管坂」、
解説文にはこのようにありました。

千年の歴史を誇る「やきものの町」常滑では、陶器の破片を路面に敷き、滑り止めとして利用していました。「土管坂」の路面には、土管を積み重ねて焼く時に、下に置く「焼台」(ケサワともいう)が敷かれており、坂の両側には、明治時代の「土管」と、昭和初期の「焼酎瓶」が埋め込まれています。環境や人に配慮した当時の人々の知恵と工夫により、独特の景観が形成されました。

はたして、その光景は…と、ここではTV朝日「ナニコレ珍百景」ばりに
ムソルグスキーの「展覧会の絵~キエフの大門」が頭の中を経巡るわけですが、
こちらが振り返り見た土管坂なのでありました。


常滑の土管坂

長さ23mとはさほどの長さではありませんですね。
おそらくはこの場所を紹介する写真がすこぶるよく撮られているということなのでありましょう。
何ごとにつけ、期待のし過ぎには要注意ということで(笑)。



むしろ景観として「お!」と思うのは、ちと別の場所にあって「でんでん坂」と名付けられた
こちらの坂道の方ではなかろうかと。


でんでん坂@常滑

うっかりにもせよ、この坂道を見て「土管坂だ!」と思い込んでしまっていた観光客もいたり。
路面にケサワはありますけれど、壁側に土管は使われておらず焼酎瓶ばかりとなれば、
ちと「土管坂」とは称しがたいものの、景観的な印象では優っているような気がしたものです。


てなことで、常滑の町は全国に土管を供給するという
地味ながら、インフラ上必要不可欠な仕事に取り組んでいてくれたのですな。
そして、「常に滑る」という土地柄への対処も土管作りの関わりで工夫していたわけで。


さて、それではお次、「でんでん坂」の左手に石垣を積んだ立派なお宅に
お邪魔してみるといたしましょう。