若手講釈師の神田松之丞が二つ目ながら大層な人気ということでありますな。
以前、一度だけ足を運んだ講談会
で聞いたところでは、
やたらにブラックな話を得意としているてなことをいじり倒されていた気がし、
本人の講談の方も語り口としては「う~む、やっぱりもうひと息では…」てな印象でしたが、
来年2020年には晴れて真打昇進となるようす。
歌舞伎の襲名披露のようには、必ずしも注目されることのない講談界にとって
松之丞の人気にあやかってこの機に講談そのものにも目を向けたもらいたいといった思惑が
あるのかも。まあ、実際には聴いたときよりもめきめきと腕を上げたのかもですが。
ところで、この神田松之丞の講談が何故にウケるのかというあたり、
確か何かのTV番組で本人が語っておりましたが、
これまで長く読み継がれてきた講談の話を今の人たちが聴いてすっと入ってくるかというと、
そうでもなかろうと。
使われている言葉にしても古めかしい表現が多く、イメージしずらいとなれば、
それをさりげなく補う説明を忍ばせてやれば、ぐっと分かりやすくなるはずと考えたわけですな。
結果としては、チケットの取りにくい講釈師ということになったということで。
まあ、現実にはこの話を分かりやすくする手段を講じたことだけで売れっ子になったかどうかは
分りませんけれど、例えば歌舞伎でもって(TV放送では副音声解説なんつうものもありますが)
観客に分かりにくかろうと説明交りの台詞で話を進めたとしたら、おかしなことになりそうですし、
伝統芸能としての矜持はどこへ行った的に本物?を求める客筋に
眉を顰められかねない気もしますね。
ですから、いずれも古典芸能ではあるものの
アレンジの許容範囲は自ずと異なるところでありましょう。
そんな中で講談と同じく語り芸である落語にもまた似たようなところがあり、
そして似たような工夫の余地といったものがあるのかもしれません。
奇しくも先日見たTBSの「落語研究会」なる番組で
古今亭志ん輔師匠(今でもついついNHKの子供番組を思い出してしまいますけれど)が
「居残り佐平次」をかけた折に、サゲで使われる「おこわ」の意味が分からない、
ひいてはサゲそのものがよくわからないと言われることを枕にもってきてましたな。
「おこわ」と言ってすぐに思い浮かぶのは食べ物であろうと思いますけれど、
この言葉を辞書で引くと(と説明することはネタバレ必至でもありますなあ…)
「だますこと」を意味するものとして、今でもちゃんと載っているということを
強調しておりました。
これがあって初めて、伝承どおりのサゲで安心して話を終われることになったわけですが、
このほど国立演芸場の7月中席で聴いた柳亭市馬の「佃祭」もまた同様でありましたよ。
志ん輔の「居残り佐平次」での枕ほどに、明らかに説明といったふうではないものの、
(といって、志ん輔師匠のもって行き方は敢えてあの形にしてのでしょうけれど)
市馬師匠の場合には、世に神仏頼みにはいろいろあって、病の平癒を願って、目ならばどこ、
安産ならどこ…てなことを紹介しつつ、歯が痛いときには戸隠様(戸隠神社)に願をかけ、
梨を川に流すというまじないの方法があったことを紹介するという。
こうした神社の話が佃島の住吉神社に繋がるので、流れとしてはうまく行っているような。
先の「居残り佐平次」の枕は飛び道具的でしたけれど。
とまれ、かような話を枕で振っておいたものですから、「佃祭」の幕切れ(これもネタバレですかな)、
身投げと勘違いした与太郎が女性を引き留める、女性は身投げじゃないと言う、
与太郎は袂に石が詰まっているのが身投げの証拠だと言い募るも、
袂に入っているのは実は梨。歯が痛いので、
戸隠様へのお供えものであったということになるわけでして。
こんな感じで、落語は落語でさりげなく聴き手の開拓につながるようにしているのでしょうか。
NHKでは「超入門!落語THE MOVIE」やら「落語ディーパー」やら、
新趣向の落語関連番組があったりして、それなりに若い方へと
裾野は広がっているのかもしれませんですが、
寄席にまで足を運ぶ人たちはさほどでもないような。
例えば新宿末廣亭 や浅草演芸ホールなど、
純然たる寄席が歌舞伎で言うなら歌舞伎座だとするなら、
国立劇場に相当するのが国立演芸場
なのではと思ったりしますね。
いわゆるホール落語に出かけるつもりで、国立演芸場へというのはありではなかろうかと。
と、いいつつ個人的に連れ立って行くのは老親なのですけれど…。