松坂城跡 のひと隅には
城下町から移築された本居宣長の旧宅と本居宣長記念館があるのですね。
松坂は国学者・本居宣長の生誕地、豪商の小津家
に生まれたものの、
商売の合間に学問でなくどうやら主客転倒して大学者になってしまったようでありますよ。
当時の豪商小津家そのものをもしのいで、歴史に名を残すことになった本居宣長。
それだけに松阪の町を巡っておりますと、宣長にゆかりあるものに出くわすわけでして、
先に松阪駅
前で見かけた鈴のオブジェもそのひとつでありますな。
駅前から進んで、当時の商人町である本町、魚町の方へと曲がる角のところには
「新上屋跡」という小さな石柱が立っていますけれど、これも宣長ゆかりということで。
宝暦十三年(1763年)、高名な学者であった賀茂真淵が伊勢参宮の途次、
松坂にとった宿が新上屋。そこで34歳の本居宣長は真淵に会い、
その後は度重なる手紙のやりとりで教えを乞うたとか。今なら差し詰め通信教育ですな。
で、魚町にたどりついてみますと、
旧長谷川邸のほど近くに「国指定特別史跡 本居宣長旧宅跡」がありました。
建物は今では松坂城跡に移築されていますけれど、右側に見える松の木は
宣長自身が丹精込めていたとされています(移植は困難としてこの地に残されたとか)。
と、旧宅跡向かいは古いままの佇まいを見せておりますですが、
ここにはかつて小泉見庵という御典医が住んでいたのだそうです。
どうにも商売に向かない宣長の行く末を心配した母親がお向かいの医者・見庵に相談、
「医者にでもしたら」との話になり、京へ勉強に出すことになったという。
京で医術ともどもに和歌などに関する学問もしっかり学んだことが
後に宣長の国学を大成させることに繋がったようでありますよ。
てなふうに街なかを経巡ってたどり着いた松坂城跡。
こちらが魚町の旧宅跡から移築された建物、そして記念館への入口になります。
妙に立派ですねえ。
こちらに移築された旧宅は「宣長が十二歳の時から、亡くなる七十二歳まで住居とし」た家で、書斎の名をゆかりとして「鈴屋(ずずのや)」と呼ばれていたのだそうです。
と、また「鈴」が出てきましたけれど、ここで本居宣長と鈴の関わりを。
さる解説によれば「宣長は、山桜と鈴をこよなく愛した人」だそうなんですが、
学問研究に邁進して疲れた頭の気分転換を図りたいとき、宣長は鈴の音を聴いたのだとか。
旧宅二階の物置を改造したという四畳半の書斎には、宣長デザイン、息子の春庭作による
「柱掛鈴」なるものが掛けてあり、折にふれては鳴らしていたと伝わっているそうな。
こちらは記念館に展示されていた「柱掛鈴」のレプリカでして、
大小合計36個の鈴が付いていると言いますから、密やかな鈴の音というよりは
結構にぎやかに鳴っていたのかも。果たして頭が休まったのかしらむ。
とまれ、旧宅の建物から裏道を通り抜けて行きますとほどなく、
こちらは思いがけなく近代的な造りの本居宣長記念館に到着となります。
展示の方は、(郷土が生んだ偉人を知ってもらうためでしょうか)子供にも分かりやすくと
工夫されているようでありますね。
ですが、居合わせた子供たちの関心を呼んでいたのはこの地図かもしれません。
「大日本天下四海画図」と言いまして、宣長が17歳のときに描いたのだとか。
縦がおよそ1.2m、横はおよそ1.9mの大きなものです。
こうしたことからも宣長の好奇心のほどを知ることになるわけですが、
後の学習過程の記録としてはこのようなものが。
賀茂真淵との出会いからそれぞれ江戸と松阪にあって通信教育を受けた…
てな話を出したですが、これは「宣長が詠んだ歌を真淵が添削したもの」であると。
脇に小さな文字で添えてあるのが真淵の添削のようですが、
「これらは歌というよりも滑稽な俳諧だ」といった厳しい評が添えられてもいるそうな。
そんな師とのやりとりを持経て、後に大作「古事記伝」をまとめるにいたるのですなあ。
…と、展示はまだまだ続くのでして、もちろんひと回りしてきたものの、
如何せん宣長に関する予備知識が完全に欠如していることはその時に気付くまでもなく…。
時折、國學院大學博物館 に立ち寄ったりもするのですから、
もそっと賀茂真淵も含めて国学周辺のことに知識を蓄えておきたいものだと
思ったりするのでありました。