松阪市歴史民俗資料館
では松阪商人のことやら名産の松阪木綿のことばかりでなく、
当然にして松坂城に関することも。
とりわけ、訪ねたときには同資料館開館40周年記念特別企画として
「松坂城1588-2018~天下人も認めた武将 氏郷の城~」が開催中でしたし。
この特別企画展示のタイトルにもありますように、松坂城を築いたのは戦国武将の蒲生氏郷。
もっとも、氏郷が城を築くことにした当時、松坂(松阪は明治になってから)という地名も無く、
地名そのものを氏郷が命名したそうでありますよ。
ご存知のように織田信長に才を見出だされた氏郷、娘の冬姫
の婿となるわけですから、
気に入られ方は相当なものではなかったかと。
その氏郷が天正十二年(1584年)伊勢に所領を与えられた際、
かつて織田信雄
が築いた松ヶ島城に一旦は入ったものの、
海に近い利便性はあるも守りに弱いという立地から
当時、四五百森(よいほのもり)と呼ばれていた場所に築城した平山城が
現在、松坂城跡が残る場所であったそうな。
四年後の天正十六年、氏郷は松坂城に入り、「松坂」と名付けた城下町を整備し始めます。
「楽市楽座」を実施し、商人をかつての城下町から誘致すると同時に街道も付け替える。
さりながら、それからほどない天正十八年、氏郷は会津黒川(今の会津若松)に移封となり、
氏郷が松坂の町のお殿様だった時期は実に短いものなのですな。
それでも、後の松坂(松阪と改められるのは明治以降のようです)の繁栄の礎は
氏郷が築いたものとして、今でも蒲生氏郷公は慕われている。
熊本における加藤清正のごとしとでもいいましょうか。
ちなみに氏郷の後、松坂城には服部一忠(桶狭間で今川義元に一番槍をつけた武将)や
古田重勝(関ケ原の際、松坂城に籠って西軍の一部を釘付けにした武将)が入りますが、
元和五年(1619年)以降は紀州藩領とされて城代は置かれるものの、
おらが町のお殿様はいなくなってしまった…というあたりも氏郷人気につながる源でしょうか。
とまれ、かような松坂城跡に登っていきますと、
もはや本丸跡も天守台跡もただただ平らな広がりしかありませんけれど、
ところどころ崩れたりもしている石垣や幾重も続く枡形などを見るにつけ、
豪壮なお城であったろうなあと想像してみたりするのでありますよ。
という具合に、城の建物は一切ないわけですが、いくつかの碑を見かけることはありました。
ひとつはそもそも城の登り口のところにある「松阪城跡」と記された大きな石碑です。
いわゆる看板的なものであるかと思うところながら、
ここからも歴史の一端を窺い知ることができるのですなあ。
この碑には「鵬雲斎千宗室」とあって揮毫の主が茶道裏千家の家元であったことがわかります。
元より蒲生氏郷は茶の湯をよくし「利休七哲」のひとりとされていたんだそうですが、
ご存知のように秀吉の勘気を蒙って千利休が切腹させられた折、
利休の次男・少庵を氏郷は会津に預かったのだとか。
後に許されて千少庵は京に戻り、その孫たちが現在に続く茶道の「三千家」を興したとなれば、
氏郷が少庵を庇護していなかったなら、三千家のひとつである裏千家も
当然にして存在していなかった…と。
もうひとつだけ石碑を見ておきますけれど、それがこちら。
梶井基次郎文学碑です。
一時、松阪に住まった梶井基次郎はそこでの見聞などから
「城のある町にて」なる作品を残したそうで、碑にはその一節が刻まれている。
おそらく梶井が滞在した大正期に城跡から見えた風景のようすなのでしょう。
方角によっては今でも高い建物はさほど建っておらず、当時を偲ぶこともできそうですが、
大正から現在への変化などほんの一瞬とばかりに、長い長い年月の移り変わりを
松坂城の石垣は見続けて来たことでありましょうね。